●ヒコロヒーの妄想小説:本日のお題「愛とプライド」

英理子さんは姿勢が綺麗だった。
背筋をすっと伸ばして顎を引いて佇む姿は、見ているこちらの背筋が思わず伸びてしまうほどで、さらにセミロングの栗色の髪は毛先まで艶やかで、化粧は薄いのだけれどスキンケアがきっと丁寧なのだろうと思わせられる美しさがあった。白いワイドパンツに浅い青色のシャツは、シンプルだけど洗練されているように見えて、その装いだけでも萎縮してしまうには十分だった。

「お仕事帰りで疲れてるでしょう、ごめんね」

そう言って英理子さんは困ったように微笑み、私は反射的に、いえ、と言ったけれど、その瞬間に自分の足元の履き潰したパンプスが目に入って気が滅入りそうになった。

「ここはルイボスティーが美味しいの。お腹が空いてたらガレットも頼む?」

そのゆったりとした穏やかな口調には否が応でも品性というものが付き纏う。あ、じゃあルイボスティーを頂きます、と言って席に座りながら、英理子さんの肌の色とよくマッチした薄付きの桜色のリップを眺めていた。カルチャー誌から飛び出してきたような観葉植物だらけのこのオーガニックカフェにもしなやかに馴染んでいる英理子さんを見て、新卒の頃に買ったスーツをこれでもかと未だに着ている自分はここに溶け込めているのだろうかとぼんやりと思った。

しばらくするとやたらに動作の遅い店員がルイボスティーを仰々しいティーカップと共に運んできて、分不相応な気分になりつつも一口飲めば、その爽快感と妙な甘みに驚いた。不思議な味、とても美味しいです、と伝えると、英理子さんは良かった、おすすめなの、とやっぱり困ったように微笑んだ。

鞄から取り出した、ひとつの白い封筒とともに一言。「ごめんなさいね」

「真緒さん、それ素敵な眼鏡ね」
「これですか?いえ、あの、安物です、ずっと使ってるもので、ここの蝶番も緩んじゃって」
「あら、じゃあちょうどよかったかもしれない」

そう言って英理子さんは鞄からひとつの白い封筒を取り出し、ごめんなさいね、と、私の目を見つめながらはっきりとそう言った。

「知らなかったのよね、真緒さんには申し訳なくて。本当にごめんなさい」
「いえ、その、英理子さんに謝って頂くことでは」
「妙な話なんだけど、私も慣れちゃって」
「あ、それは、その、そうなんですね」
「克則さんって昔からそうなの、遊び屋で。だから気にしないで」
「そう言われましても」
「ご迷惑おかけしたから、これだけでも受け取って頂きたくて」
「いやそんな」
「いつもの事なの」

英理子さんは小首を傾げながら、催促するようにもう一度私に向かって微笑んだ。その笑みに安らぎは無く、薄いけれど明らかな、かつ朗らかな圧力が存在していて、私は「はあ」と情けない声を出して封筒に手を置くしかなかった。

「あの、私なら、大丈夫です。もう二度と克則さんと会う事もありませんし、連絡先も消しています。あと、本当に知らなくて、あ、いえ、知らなかったとはいえ、英理子さんにも不愉快な思いをさせて、ご迷惑をおかけしてしまったこと、本当に申し訳なく思ってます」
「いいえ、真緒さんが謝る事じゃありませんから」
「なんていうか、でも克則さんは」
「私ね、もうすぐ子どもを迎えに行かなきゃいけないの。よければ、せっかくだしゆっくりして行って」

そう言って英理子さんは小さな革製のバッグを手に取り、お会計はこちらで済ませておきますから、と微笑んで席を立った。私は何も言うことができず呆気にとられようにして、颯爽と店を出て行く英理子さんの凛とした後ろ姿を見つめることしかできなかった。そして、そのまま英理子さんの姿が見えなくなった頃、私は既にこの辺りに到着していた一時間ほど前のことをゆっくりと思い出していた。

1時間前に目を奪われた、美容室から出てきたあの美しい女性は

英理子さんと会う時刻より一時間も早く到着してしまった私は、駅前の古い喫茶店の二階、窓際の小さな席で時間を潰していた。SNSを触る気にもならず、事情を知る友人に連絡する気にもならず、どうでもよいコーヒーを飲みながら、ただ窓からロータリーを歩く人々をぼんやりと眺めていた。コーヒーが冷めてきた頃に、窓の外を見ると美容室から颯爽と出てきた一人の女性の姿勢がとても美しくて目を奪われた。ああ、あれは英理子さんだったのだと、観葉植物だらけのオーガニックカフェで彼女を見て一目で気が付いた。

あの克則さんが昔から女遊びが激しい訳などないことは分かっている。
私を口説くのもじれったくて、ホテルの選び方も雑で、雰囲気の良いバーのひとつだって知らなかったような中年男性だ。取り柄らしいところもなく、いつも損な役回りを押し付けられ、面倒な業務を頼まれても文句の一つも言えずに引き受け、調子のいいおべっかも気の利いたジョークも言えない。でもふとした相槌が優しくて、感謝されることもないのにいつも誰かの失敗をささやかにカバーして、義理チョコのお返しでくれたクッキーをたった一度おいしいと言えば何度もそれを差し入れてくれ、素敵なシャツですねと言っただけでこちらが戸惑うほどにはにかむ、克則さんの、そんな不器用なところが好きだった。

その証拠のように、私と付き合い出してすぐに奥さんに事が知れ渡ってしまい、私にもその全てを白状したのではないか。英理子さんの写真を見たのは克則さんが離婚などしていないと知った日で、化粧っ気がなく、ラフなTシャツを着込んで、セミロングの髪は白髪が目立っていたけれど、快活に笑う英理子さんはやはり背筋が美しく伸びていた。

私が会って好きになっていた彼は何面のうちの何面なのだろう

英理子にはもう口をきいてもらえない、義母とも性格が合わない、真緒ちゃんとずっと一緒にいたい、と、情けなくこぼしていく克則さんが嘘をついているとはどうしても思えなかったけれど、私には「数年前に離婚している」と言っていた事実も確かにあって、とはいえその嘘もすぐにばれているのだから何とも言えず、私が会って好きになっていた克則さんは何面のうちの何面なのだろうかと分からなくなり、そのうち疲れて考えることをやめてしまった。

克則さんにもう会わないと告げた時、彼は子どものように泣いた。手の甲でずるずると涙を拭いながら、きちんと言葉にできないままこちらに何かを伝えようと声をあげて泣いていた。仕方のない人だと呆れたけれど、見放すことも難しかった。

英理子だって僕のことはもう嫌いなのに、僕がいるだけで鬱陶しそうにするのに、意地になってるだけなのに、と、泣き続ける彼を眺めながら、だったら英理子さんと別れてみてください、とでも言ってみようかと思ったけれど、ばかばかしくなってやめた。
この目の前のさえない中年男性が一心に私を慕ってくれていたことは、きっと真実だった。そしてこんな男性を亭主に持った女が日々苛立ちを抱えることもまた、真実かもしれないと思った。

彼を粗末に扱うのならば、私に欲しい、だったら私に欲しい

英理子さんが克則さんをもう要らないと言えば、克則さんのところに戻ろうと決めていた。あの哀れな中年男性のもとへ駆け寄り、もう要らないんだって、と、いじわるの一つでも添えて、抱きしめてあげようと思っていた。でも英理子さんは、決して克則さんを手放さなかった。

英理子さんが私と会う時刻の前に美容室に行っていたのは偶然なのだろうか。終始余裕の面持ちだったのは、余裕があったからなのだろうか。白い封筒を取り出して「いつものことだ」と微笑んで真っ赤な嘘をついたのは、どうしてなのだろうか。

傍目からは見分けがつかない、英理子さんが手放さないそれが、がらくたでなければいい。克則さんがきちんと愛され、心がふっと軽くなる居場所が家の中にあればそれでいい。私のような立場の人間がそう思うことさえ傲慢なのだろうか、どうして私は彼と一緒になれないのかと悲観的になって状況に陶酔するようなこともするつもりはないし、したくはない。

ただ、英理子さんが彼を粗末に扱うのならば、私に欲しい、だったら私に欲しい、と、どこにも誰にも届けることのないであろうこの思いは何度も寄せては返していきながら、ひどく不味いルイボスティーを一気に飲み干して唇を乱暴に拭った。

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」1月31日発売

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」が1月31日に発売されます。「ヒコロジカルステーション」で連載中の小説を加筆し、さらに書き下ろしも。朝日新聞出版。1760円。