20時。大きな音がして、マンションのベランダに出た。

東の空に大輪の花が咲いている。赤い光が蛇のように中空へ登り、炸裂。時間差で金のしだれ桜が現れて暗闇を埋める。
そういえば、夕方のニュースで「2年連続で中止となり、やむなく」とキャスターが話していた。ゲリラ花火というやつだ。人混みができるのを避けるため、打ち上げ場所を知らされないまま上がる花火。

打ち上げ花火が上がった瞬間、「ベランダの隣」から声がした

しかしこれは近い。今まで見たものの中で1番大きい。サイズと方角から考えて、会場はきっと……。

「幕張の浜ですかねー」と、明らかに私に向けた呼びかけが聞こえた。左側のベランダから、少女がちょこんと顔を出した。ショートカットに大きな目、華奢な肩、色の白い頬、緑のブレスレット。高校生くらいだろうか。

「急にすみません、こんばんは、ですね。お姉さん」。少女はくしゃっと笑った。人懐っこい表情が子犬のようだと思った。

「こんばんは。というか、初めまして」。仕事以外で人と話すのは久しぶりで、少しだけ緊張する。東京では近所で引っ越しの挨拶をしないので、私は隣人の顔も名前も知らなかった。

「花火、おっきいですねぇ。こんな近くだなんて超ラッキー」。
「本当にね。花火大会、今年もコロナで全部なくなっちゃったものね」。
「まじで意味わかんないっていうかー。華の高校生ライフが台無しですよー」。若者らしい言葉遣いだが、おっとりと上品な話し方をする。育ちがいいのだろう。

「良かったら、こっちのベランダで一緒に見ない? ジュースとお菓子くらいしかないし、距離は取らなきゃだけど」私が言うと、「いいんですかやったー」と少女は目を輝かせる。素直な小型犬を思わせた。「コアラのマーチ持っていきます。菓子パしましょー!」。

少女は初対面とは思えないくらいよく喋り、聞き上手だった

初対面とは思えないくらい、少女はよく喋った。しかもリアクションが心地よく、聞き上手だった。色々なことを話した。学校のことや仕事のこと。コロナでなくなってしまった文化祭。好きなドラマ、本、映画。素顔を知らないクラスメート。オリンピックの試合。旅行会社に勤める母親のため息。

絵柄を模したアート花火が次々と開き、闇に消えていく。歪んだハートやねじれたリボン。2人で「今のは何のマークか」を当てるゲームをした。1つはどう見ても大根だと少女が主張し、私は冬の野菜を使うわけがないと反論した。

コアラを口に入れ、少女はゆっくりと言葉を紡ぐ。「あたし最近、人生について考えるんですよねー」。「どんなこと?」と尋ねながら、私はビールの2缶目を開けた。タブを引く爽やかな音が、腹にひびく低音と混じりあう。

「高校入ってやっと、インスタとTiktokを始めたんです。友達のインスタって、見るの楽しいじゃないですかー。おしゃれなカフェとか、ディズニーの映画とか、彼氏の試合の応援とか、お菓子作りとか」。
「わかる。私もついつい一時停止させちゃう」。
「それに比べてあたしの人生って、皆みたいに素敵じゃないなーって思うんです」。ねじれていないリボンの花火が上がった。空に浮かぶ、90度ずれた縦結びのリボン。微妙に惜しい。

「彼氏いないし料理は苦手、カフェで写真撮るタイミング逃すし、趣味もあんまりなくてー。部活ものびのびできないし。我ながら地味っていうか……嫌なんですよねー」。純粋でかわいいと思った。

SNSは、特にインスタグラムはそういうものだ。生活のごく一部を切り取って、加工して、世界へ放流する。切断面や見せる方角によって、全く違う物語を観客に伝えられる魔法。虚飾と呼ぶか、表現と呼ぶかの問題だ。

「これから素敵になるんだよ」と呟きながら、私はビールを喉に流し入れる。夜を歩く猫のような、美しい瞳がまっすぐに私を突き刺す。「あなたは高校生だもん。今からいくらでも素敵な人生にできるよ」。あえてピントのずれた回答をした。透明な若い感性に干渉するには、私は大人になりすぎている。

名前も年齢も聞いていない彼女と、もっと仲良くなりたいと思った

「そーなんですかねー。あ、こういうのストーリーに上げたらそれっぽくなるのかな」。最新のスマートフォンを掲げて、夜空を拡大したりフィルターをかけたりしている。混じりけのない眼差しは真剣で、ため息が出るほどピュアだった。アート花火の締めに青の星マークが光り、横方向にひしゃげたヒトデに見えた。私はたぶん、いつもより酔っている。

私たちは全身で花火を堪能した。目がくらみそうな明るさ。鮮烈な火薬の匂い。煌めきの数秒後、下腹部に響く音。私はビールで彼女はオレンジジュース。
ひときわ大きな花が咲いた後、機械的な普段の夜が戻ってきた。

「終わっちゃったね」。
「最後のやつ派手で良かったですよねー」。
「で、さっきの人生の話ですけど」と彼女は続けた。虚空を見たまま、艶のある髪をさらりと指で梳く。

「学校の誰にも言えなかったんですけど、吐き出してみたらなんかポジティブな気持ちになりましたー。良かったらまたお話ししてくれますか?」。
「それは良かった。いつでも言ってね」。

おやすみと軽いキスをして、彼女を送り出した。1人でベッドに寝転がる。名前も年齢も聞いていない彼女と、もっと仲良くなりたいと思った。この年齢になって、新しい人間関係ができるなんてわくわくする。

息苦しい今年の夏もきっと、悪いことばかりではない。