数年前、エッセイを懸賞に出して入賞したことがある。
その懸賞は、障害者理解を深める意図で募集されていた。私は障害を持っている。初めてそこで本名で、当事者としてエッセイを書いた。今読み返すと気恥ずかしい思いが強いが、当時の自分にしてはよくやったし、意味があることだったと思う。
入賞を知り、大学に合格したときより喜んだ。しかし、その喜びはつかの間のものだった。
なぜかを書くが、今回出てくる団体を非難したり、攻撃する意図は一切ない。新たな気づきを得たことについて書きたいから、この一連の事件について参照したい。

エッセイで入賞。喜びに浸っていたある日、目に飛び込んできたのは…

募集要項は、簡素なものだった。関心のある人であれば、誰でも応募できます。ただし、障害のある人は障害状況を応募時に記してください、というものだった。その時は、募集の意図からしてそんなものだろうと疑いなく障害状況を入力し応募した。

そうして入賞が決定し、エッセイが掲載された冊子も刊行された。喜びに浸っていた。
ある日、ふとその募集団体のホームページを見てみた。すると、事業報告書のようなものに、入賞者として私の本名が一覧に載っていた。そして、その横には「障害状況(手帳の等級)」が当たり前に記載されていた。

私はそれを見てぎょっとした。私の障害状況がインターネット上に記載されるなんて、まったく聞いていなかったからだ。
自分の名前から検索しても、そのページが出てくることを確認し、一層青ざめた。

「だって、障害者の立場からエッセイを書いたんだから、それは当然でしょう?何か問題でも?」と思われるかもしれない。私の状況を説明させてください。

削除依頼も回答は一辺倒。ご自身の意思での申告とまで言われる結末

私はいわゆる精神疾患で、生まれつきではないのをいいことに、普段は「普通の人」と同じように街を歩き、働いている。今はある程度薬によってコントロールできているので、友達にも親戚にも、あまり伝えていない。そして当時の恋人にも、まだそのことは伝えていなかった。

四六時中一つの肩書でいるわけではなく、場合に応じて使い分けをしている感じがある。ときに偏見を持たれることもあると思っているため、なるべく最小限に限って伝えることにし、自分を守っているところがある。
「見て分かる障害じゃないし、いいご身分」と思われるのも分かるが、そこは不便さの種類が違うと思っていただけるとありがたい。

このような「障害状況」であるから、掲載はまずかった。早速団体に電話し、削除してくれるよう要請した。
しかし、ご担当者の返事は「行政にすでに提出した報告書であるから、今から削除することはできない」というものだった。丁寧に答えていただくのだが、回答は一辺倒なものだった。

次にメールで依頼してみた。回答は更にひどいものだった。
「募集要項の障害状況は必須項目ではありません。ご自身の意思での申告でしょう。あらゆる人に意思表示をするためにエッセイを応募されたのですよね。気になさっていることは応募された意思とは整合性が取れないと思います。ご要望にお応えすることはできません」
だいたいこのような返答だった。

デジタルタトゥーが刻まれ不安な毎日に、どうしても諦めきれなかった

絶望した。デジタルタトゥーが刻まれてしまった。
転職するとき、結婚する時に身辺調査されたらどうしよう。恋人が私の名前を検索したらどうしよう。
考えすぎかもしれないが、不安な気持ちで夜は眠れなくなった。ちょうど、インターネットの誹謗中傷がかなり話題になっているときだった。

先方にとっては、個人的すぎて些末で面倒な主張。そうだと思う。でも私はどうしても諦めきれなかった。

法律事務所の無料相談に行ってみた。取るに足らないと同じように回答する弁護士もいた。
しかし、それでも諦めずはしごして相談しに行った。味方してくださる弁護士先生に出会い、「障害状況は、『要配慮個人情報』で、ポリシーもなく公表するのは言語道断。まずは書面で訴えてみては。解決しなかったら、また来てください」と心強い返事をもらった。私はエッセイを書いたときよりも真剣に書面を作成した。

「ホームページには、名前と障害状況が記載されているだけです。このような掲載方法では、私にレッテル貼りが行われます。障害を持っていることは、作品を読んでくれる人に向け、その中でのみ必要な情報であり、この文脈以外でみだりに知られたくありません。たしかに自分の意思で障害について申告しました。しかし、障害状況を『公表』することには同意していません」
読み返すと鬼気迫っていて、もうこんな文は書けそうもない。

思い返してみると、自分の信念を貫けたのは得難い経験だった

2週間後、団体から手紙が届いた。内容は「個人情報について配慮が足りなかった。心痛についてお詫びします」というものだった。ホームページを確認すると、障害状況が空欄になっていた。晴れて、要求は通った。

別にしなくていい経験だったかもしれない。一方、八方塞がりで、有効な手段がわからない状況でも諦めず、なんとか自分の信念を貫けたことはかえって得難い経験になったかもしれない。
私には障害がある。それは空欄になっても変わらない。自分にとって自然なこととして受け入れている。ただ、「私=障害者」なのではなく、大きな私の枠の中の一部に、障害があるだけだ。

だから、レッテルを貼って簡単に考えたくない。複雑な、すっきりしない自分でいていいと思っている。それは他の人も同じことで、いろいろな背景を持って生きている人がいる。
誰かにとっては些細なことでも、別の誰かにとっては大事なことがある。想像力を大切にする。エッセイを書き続けるためにも、心やわらかく、豊かに考えたい。