「好きだ」とまっすぐ、てらいなく言えることって、あまりない。でも、文章を書くのが好きだ。まっすぐ、好きだ。
書いていくうちに、自分の中が整理され、よりどっしりと考えが根付くようになるから好きだ。
それが自分が生きやすくなるきっかけになるから好きだ。書いたあと、自分のことを褒めてあげたくなるから好きだ。
言葉にならない気持ちを、やっとのことで言葉にし、剥がしたり、まぜたり、また組み立てたりすることが気持ちよくて、夢中になる。

しかし、文章を「自分のため」に書くようになったのは、最近のことだ。
これまでは、人に見せるため、人にウケるため。あくまでも他者との関係の中で「読んでもらう」ことばかりを気にしていた。

幼少期から「いい子」でいることは考えず生きていくためのツールだ

私は小学校からミッションスクールに通っていた。学校では、週に何度かキリスト教の授業があった。
そこでは「あなた方は祝福された神の子」「だから生まれたことには意義や使命がある」
といったようなことを習った。小さい私はすぐにそれを信じた。

「期待されてることは私の使命なんだから、かっこよくこたえなくちゃ」
文章にもそれは現れた。作文は、期待どおりの答え探しのための作業であったし、お手本のような文章を書くことが正しいと疑いなく思っていた。実際、大人が「上手だね」と褒めてくれることが嬉しかった。
いい子でいることは、スイスイと簡単に、考えず生きていくためのツールであったように思う。

中学生になってもミッションスクールに通っていた。
お決まりの反抗期だったので、いい子になることはできなくなっており、少しでも他人と違うところを見せつけたいと粋がるようになる。

文章にもそれは現れた。有名な吉野弘の「I was born」の感想文を書くときだった。「宗教の時間に、『人間は使命を持って生まれる』と習ってきたけど、これを読んでそれを疑うようになった。バトンを渡されるだけ。気負わずに生きたい」と書いた。中学生らしい。担任の教師は、「あなたの文章は生意気だけれど将来が楽しみね」と言ってくれた。それは大人への反抗心ばかりの私にも少し嬉しい一言だった。

ただし、あっと言わせたいと奇をてらう気持ちが強くなりすぎ、その後はあまり書けなくなった。

「私」として書く文章は、私の匂いがつくから、見られ方が気になる

大学生になり、周囲が優秀だった。何を書かせても唸らせるような同級生が何人もいる環境で劣等感が染み付くのは容易いことだった。
大学の課題でしか文を書かなくなった。大学の課題は、なるべく目立たず、平坦な文章を心がけた。借り物の言葉ばかり使った。文章を褒められることはただ一度もなかった。

書くことは、私にとって不可欠なツールであったが、思い返せば書くことに対してポジティブに思えることばかりではなかった。人に読んでもらい、ときに褒められたり、よく見られたりする副産物のために書いてきたと思う。

そして、文章はあくまでも本名の「私」として書くものばかりだった。 本名の「私」で書く文章は、私の匂いがつきすぎる。私がそういう考え方の持ち主なのねと解釈されてしまうし、自分も見られ方に気を遣使う。
SNSに本名で掲載すれば、知られたくもない知り合いに、心の内までさらけ出すことになる。傷つくリスクだけが高まるし、恥ずかしい。

それが最近、変わった。本名の「私」として文章を書く機会だけではなくなったからだ。私はブログやこの「かがみよかがみ」で、少し書き始めるようになった。ペンネームで書いたら、より正直に、大胆に、自由に書けることが分かって、びっくりした。

感情の動きや思考を細やかに言語化して、自分のために書き続けよう

書いたものについて、少しの反響があってもなくても、とくになんにも変わらない。私は承認を求めがちな方だが、書いたあとはそうでもないのは、自分で書くことが自分の癒やしになり、自分のよりどころになり、いざというときに自分を引き戻してくれて、助けてくれる材料になると知ったからだ。
大切な体験だった。そして友人知人にはほとんど誰にも、私の文章ですなんて言わなくていい(言えない)。

そのためいまのところ、自分語りの文章ばかりインターネット上にぽつりぽつり書いている。まだまだ、もっともっと!と思うことばかりであるが、少しの反響や、フィードバックをもらうたび、極めて個人的な体験が、誰かの心にひっかかったと思うと、書いてみてよかったと嬉しく興奮する。

私の当面の目標は、自分のために書くことを継続しながら、感じた違和感や、感情の動き、思考したことをより細やかに、鮮やかに言語化することだ。まだまだ、もっともっと。たくさん書いておきたいし、大切なものにしたいから。
私が書いているけど、ペンネームの私が書いた文章が、いつか私も知らないうちに独りでに歩き出し、誰かの心に届けばいいと、ちょっと野望も込めながら。