「ふるさと」とは何なのか。自分が帰ってくるべき場所?安心できる場所?懐かしくなる場所?自分を包み込んでくれる場所?
こういう場所を世間一般で「ふるさと」というのなら、高校生の私に「ふるさと」はない。

帰寮した子が口を揃えていったふるさとの安心感を感じられない自分

私はこれまで複数の場所を転々としてきた。
生まれて1~2年は海外に、幼稚園から小学校に入りたての頃は国内の、割と都会に近い街に。その後別の都道府県の学校に転校し4~5年過ごして、中学受験を機にまた別の場所に移り、今度は寮暮らし。

今まで住んでいた場所それぞれに思い出はあるし、時々訪れると懐かしいような、どこか切ないような気持ちになる。でも。ここに「帰ってきた」と思えたことは一度も、ない。

中学生になり寮に入ったころ、一緒に生活していた子は全員ホームシックになっていた。中には毎日部屋で泣いている子もいた。
今考えると、少し前まで小学生だった子が親元を離れ生活するのだから、寂しくなるのは当たり前だろう。私はその年相応ともいえる気持ちがわからなくて、泣きじゃくる周りの子を慰める役割に徹した。
そして、家の帰省が必須であった長期休暇明け、家から寮に戻ってきた子はみんなこう言った。

「やっぱり自分が住んでいた街って落ち着くよね、『帰ってきたんだ』って感じがする」
話を聞くたびに、羨ましさと同時に「心の帰る場所」がないことへの劣等感で心がスッと冷めてゆく。

高校生活も佳境に入った今、改めて「ふるさと」に劣等感を感じる

家族がいないわけじゃない。実家がないわけじゃない。
なのに、何かが足りない。
「身体」が帰る場所はあるはずなのに、「心」は帰れずにふわふわと宙に漂っていた。
なぜ自分の心はどこにも帰れないのだろう。別に「ふるさと」がなくても今まで普通にやってきたじゃないか。

特別困る事なんて何もなかった。そんなはずなのに、落ち着く場所を見つけられない自分が不良品のように感じられた。

もうすぐ高校生活も終わろうとしている今、もう一度「ふるさと」について考える。
「ふるさと」という暖かい響きと、帰るべき場所に帰る人々を想像しては、その「幸せ」に当てはまらない自分を見て嘆く。ホームシックになってしくしくと泣く同級生を見て、今まで視界に入ってこなかった「普通」を知る。

「普通」が一旦視界に入ると、自分が体験しなかったこと、感じなかった想い、つくられなかった思い出、歩んでこなかった人生がくっきりと姿を現す。
知らなければ感じることのなかった劣等感。喪失感。

「あの時こうしていたら、『普通』だったのに」
「ああしなければ『ふるさと』はあったのかな」
と、心に流れ込む怒涛のタラレバ。
「失ったものではなくて、自分が今持っているものを大事に」などと言われるかもしれないが、一度気づいてしまった以上は意識せずにはいられないのが私だ。

今感じている劣等感も全て包み込めたら、心にふるさとは見つけられる

だが、最近一つの終着点を見つけた。
自分の人生にはない、他人が歩んできた道。得たもの。それらを意識せずにいられないというなら、そんな自分ごと抱え込むのはどうだろうか。

「ふるさと」がない私。
「ふるさと」が欲しい私。
「ふるさと」を持っている他人が羨ましい私。
どこにも帰れずに喪失感に震える私の心。
そして、これらはすべて「私」なのだ。

ありのままの自分を受け入れる、そんな大層なことはできない。だが、今感じている劣等感も喪失感もすべて包み込めたなら、私の心は、「私の心」に「ふるさと」を見つけたことにはならないだろうか。

具体的な街じゃなくても、名前がなくても、自分の心を受け入れられる心であるのならば。
私のふるさとは、「私」だ。
だから、私は、「私」が帰ってきたいと思える、そんな人になりたいと思う。暖かく私の心を迎えてあげたいと思う。
そしていつか、同級生を慰めつつ冷え切った心を抱えた私にも、「おかえり」という言葉を贈りたい。