学生時代にできた友達のKちゃんは、卒業後も引っ越しせずに同じ家に住んでいた。
私もそうだった。だから、ラインで連絡を取り合うことはなくても、はたと学校の最寄り駅で出くわすことがあった。
「今晩空いてる? 飲みに行かない?」
前回飲みにいったぶりに会えば必ず、Kちゃんは聞いてくるのだった。

「多摩湖に行かない?」。誘いは3杯目の酎ハイを飲んでいた時だった

Kちゃんの趣味は旅行だ。学生時代からよく一人旅に出かけていて、その土産話を聞くのが好きだった。
「多摩湖が良いよ」
最初に聞いたのはずいぶん前だった。
「今日は朝、多摩湖を散歩してから学校にきた」
「ほとりで楽器を吹くのも気持ちが良い」
多摩湖。聞いたことはあったけれど、行ったことはなかった。
学校から往復1時間かかる所にあるという。そんなに遠くはないけれど、授業前にわざわざ行くような場所だとは思えない。私だったら行かない。ただでさえいつも遅刻ギリギリなのに……しかも楽器みたいに重たい物を持って? いくら吹奏楽部で、おうちで管楽器の練習ができないとしても、近所の河川敷に行けばいいのでは……。
一瞬にしていろいろな思いが頭を巡ったけれど、私は突然の「多摩湖」の出現に驚いてしまい、Kちゃんの話を聞くだけで終わった。多摩湖はとても大きいらしい。
それから随分時間が経ち、私達は社会人となり、鳥貴族で3杯目の酎ハイを飲んでいた。
「よければなんだけど、この後多摩湖に行かない?」
変わらない顔色でKちゃんは言った。
「行こう」
私はすぐに答えた。
あたりはすっかり夜で、酔いがまわった頬に当たる秋風が気持ちよかった。
電車に乗り、私達は多摩湖へと向かった。

湖で息を吸い込むと体に酸素が巡る。疲れていたんだな、と気づいた

無人の多摩湖駅周辺は真っ暗だった。舗装された遊歩道をとおり、私達は多摩湖のほとりに出た。
Kちゃんはここで楽器を吹いていたのか。目の前に広がる空間に、管楽器の音色が響くのを想像した。確かに気持ちがよさそうだった。
月の明るい夜だった。光が湖面に反射してぬるぬると光った。山に囲まれた広い湖のそばで大きく息を吸い込むと、体にすっと酸素が巡った気がした。疲れていたんだな、と気づいた。
思えば、大学を卒業してからの生活は上手くいってるとはとても言えなかった。仕事のために満員電車にのり、失敗を恐れては毎日はりつめた気持ちでコーヒーを飲む日々。久しぶりのお酒と、久しぶりの深呼吸で、私の体は心地良く循環を始めていた。
多摩湖の周縁を歩く。もうすっかり暗いのに、街灯の下でミニサッカーをする家族連れや、ジョギングの人とすれ違う。ざわざわ揺れる草の間をのんびりとふたりで歩くのは、講義のあいまにKちゃんと歩いた学校の農園を思い出した。
私たちはひっそりと講義を受けるタイプの学生で、友達の関係だけれど、それぞれひとりで行動することが多かった。けれど、ときたま誘い合っては講義終わりに、農園や、学食や、図書館にいっては人生の悩みについて吐き出しあった。
それって今とそんなに変わらないかもしれない。疲れたときに友達と話して息抜きをできる、地味だけど穏やかな幸福を感じていた。

Kちゃんに誘われなかったら、湖の水平線を見ることはなかっただろう

帰りの電車に乗る頃には、すっかり酔いが冷めていた。鳥貴族でこぼした不安や心配は頭の中で落ち着き、気持ちがすっきりと澄んでいた。
「つれてきてくれてありがとうね」
私はこれまで生きてきて、多摩湖に行こうなんて思ったことはなかった。Kちゃんに誘われなかったら、これからの人生でも湖の水平線を見ることはなかっただろう。
お礼を言うと、Kちゃんは急に真剣な顔になって、
「鈴木ちゃんって珍しい人だよね。誘ってすぐ、多摩湖まで一緒にいってくれる人、あんまりいないよ」
と、真面目な調子で言った。
おお、そうか。私がKちゃんを、自分とは違う人だと思うのと同じように、Kちゃんもそう思ってくれているのか。学生時代の趣味だった旅行や楽器を変わらず続けているところを尊敬しているように。願わくばKちゃんにとっても、私が大事な友達であってほしい。
私たちは駅で別れた。家に帰り、水をよく飲み、眠り、朝を迎え、仕事に出かけた。相変わらず緊張と不安はあったけれど、溜まればまた多摩湖に行けばいいと思えた。

あれから数年がたって、私は引っ越してしまった。多摩湖へ行くためにかかる時間も長くなった。最寄り駅が違うから、Kちゃんと偶然出くわすこともないだろう。
でも、あの夜があったから、生活の疲れを溶かす場所が必要なこと、私にも友達がいることを、覚えていられる。