「私が○○を変えるなら」というテーマで、自分の体験談を書いた。「避難所で欲しかったのは生理用品、充電器、甘いもの。女性の救いになる防災セットを作る!」というエッセイ。
震災のことを書くのは、大きな災害をネタにしているようで少し嫌だった。だが、仕事で「これを入れたいんです!」と伝えても、思いが伝わらないのが悔しくて、文字で書き殴った。
このテーマでかがみすと賞の次点を貰ってしまった。正直言って、書いたことすら忘れていた。「もっと多方面から見ると良い」と講評をいただいた。思いを分かってくれる人がいたことが嬉しく、同時に自分の視野の狭さを恥じた。
エッセイに書いた企画が通った。会社がそんなに嫌じゃなくなった
次点をいただいた少し後に、私が前から言っていた「女性のための防災セット」の企画が通った。エッセイに書いた通りのアイテムを入れられることになった。
「いいんですか」と聞けば、私の部長のそのまた上司に、「すだれが本当に欲しいものは(私は会社ですだれと呼ばれている。佐藤が複数いるからだ)、他の女性も欲しいものだろう」と言われた。
私は、自分の考えに根拠が欲しくて、防災に関する資格を幾つか取得していた。資格は自分の勉強になり、それ以上に商品に対する説得力が増した。そこも評価されたのだと思う。
いつも私は、部署の中で腫れ物扱いだった。周りの言った仕事すらできなかったからだ。それなのに、それなのに!ずっと嫌だった会社が、そんなに嫌じゃなくなった。
「これから防災についてはあの子に全部やらせろ」。会長からの言葉
蝉の声で耳鳴りがする夏の終わり。半期の成績が認められ、部署で最優秀賞をいただいた。
滅多に褒めない部長から(彼のこともエッセイに書いたことがある)、「ほら、皆お前のことを認めているんだ」と遠回しに褒められた。
相手のことを「お前」というのはどうかと思ったので、少しだけ嫌な顔をした。会社の経営陣からも、お褒めの言葉をいただいた。
これは後から聞いた話だが、「お前は(防災の資格を)持っているのか」と、会長が部長に尋ね、部長は「いえ」と答えた。それに対して会長は、「これから防災についてはあの子に全部やらせろ」と言ったそうだ。
陰口ならぬ日向口だ。パッと目の前が明るくなった。認めてもらえた嬉しさよりも、もっと様々な商品を作り、世の中を幸せにしないと!と、私にしては珍しいほど心が熱くなった。
あれはエッセイじゃない。私の「宣言」であり「決意」だ
エッセイを書いたあと、採用の連絡がきて、程なくして掲載される。掲載された自分の文章を、私は読み返したことがない。自分の「その時」の心の内を、勢いのまま綴っているからだ。読み返しても正直、その時の自分の気持ちを思い出せない。
私のエッセイはいつでも、その時の気分のままの、あくまでモティーフだ。だがあの防災についての思いを綴った「アレ」は、違う。「アレ」はエッセイじゃない。「宣言」であり「決意」だ。
「女性のための防災セットを作る!」と大声で宣言をした「アレ」を書いて、出して、採用されて、そして載ったとき、私は書いたことを後悔していた。私はなんてことをしてしまったんだろう!できないかもしれないことを、形に残るモノにしてしまうなんて。
有言「不」実行にすることはできなかった。きっと数あったであろう文章の中から、私の文章を見つけてくれたのだから。
あの決意が人生を変えた。みんなのための商品を企画し続けたい
結果としてあの「決意」は、私の人生を変えた。仕事ができずお荷物扱いだった私が、賞をいただき、会長にまで認めてもらえた。あの時、内に秘めた思いを出さなければ、きっと私は変わらなかったのだと思う。
認めてもらった分、私には責任が生まれると思っている。講評を改めて読んだ。別の視点に立って、その人が本当に必要としているものをつくる。もはや防災セットだけではない。
生活していて不便だと思うものすべて、あったらいいなと思うものすべてが、私の担当商品カテゴリだ。私はこれからも、私のための、そしてみんなのための商品を、企画し続ける。