これを一着と称していいのかは分からないが、私には10年間大事にしているマフラーがある。
赤がベースのカシミヤのそれ。クリーム色と赤の彩度が違うチェックに、紺色のラインが可愛らしい。マフラーと言われて思い浮かべるような、有り触れた赤いチェックのマフラーを私が手に入れたのは、中学1年生の冬真っ只中だった。

マフラーを選ぶ基準。首にぐるぐる巻いて、もふもふ出来ること

本来マフラーとか手袋とか、そういった防寒具の類は、冬の訪れを全身で感じ切った後に用意するものではない。秋と冬の境界が限りなく曖昧になり始めて、背中を思い切り押されたら季節が変わってしまうような、そんなギリギリの淵に立って、人々は慌てて用意をし出すものなのに。周囲の冬支度が済んで冬服も馴染みきった頃に、私は母にねだって、それを買ってもらった。

田舎の中の都会にある大型ショッピングモール。そこに入っているお店を端から端まで覗いて、私はマフラーを選んだ。
基準は1つ、幅が太いもの。太くて大きくて分厚くて長い、膝掛けみたいなもの。それを細長く折って、首にぐるぐると巻いて、もふもふにしたかった。絶対。

色とデザインは正直、ある程度はどうでもよくて、それが出来るマフラーを賢明に探したのを覚えている。だってクラスの女の子がやっていたんだもの。

クラスでも部活でもある程度の地位を築いていた女の子たちが、中学1年生の冬、こぞってぐるぐるもふもふをやり始めた。
小学生の時に「そのマフラー禁止だよ!」と独自の校則で難癖をつけてきたあの子も、私の好きな男の子と付き合っていたあの子も。黒い髪ごとマフラーで巻いて、それに鼻先を埋めて登校し始めた。
それが可愛かったのか、それともその子たちが可愛かったのか。どちらに当時の私が憧れたのかは分からないが、私もその仲間に入りたかったのである。

一生大事にしよう。母が買ってくれた憧れのマフラーに私は高揚した

だから念願のマフラーを見つけた時、私は高揚した。母は、そんな私の様子から何かを感じ取っていたのか、必要経費だと思っていたのか。財布の紐が固いイメージがあったが、その時ばかりはあまり渋らずにそれを買ってくれた気がする。

同時に、私はレジで提示された金額に大きな罪悪感を抱いたのを覚えている。はっきりとした金額は覚えていない。けれど当時の私にとっては、それは一生大事にしようと思えるほどの金額だった。

我が家の経済力と中学生に買い与えるという観点、それと大型ショッピングモールで売っているものというのを総合的に考えられる今は、そんな大層なマフラーではなかったのだと想像出来る。
けれど照明が少し暗めで大人っぽい、今の私でも1人で入るのにほんの少しだけ躊躇してしまう雰囲気の店内で渡された憧れのマフラーは、私を酔わせるには十分すぎた。

マフラーを巻いても憧れていた女の子にはなれなかった、あの時の記憶

結果として、そのマフラーを巻いたからといって仲間になれるわけではなかった。
まず、ぐるぐるもふもふのあの巻き方が分からなかった。教えてもらっても不器用な私には上手くできなかったし、憧れていた女の子のようにはなれなかった。

遠くの女の子たちがやり始めて、もう少し近くの女の子たちもやり始めてから、慌てて真似をしようとマフラーを買いに行くような私が、中学校でどのような立ち位置だったかは言うまでもなく、真似をしないという選択肢も突き通すような自分も持っていなかった。

宙ぶらりんで悲しい。何にもなれなくて悲しい。あの子たちとは根本が違って悲しい。
けれど買ってもらった大層なマフラーをしないという選択肢は、当時の私にはなく、中学校3年間は勿論、高校の3年間も、田舎の長い冬を共に過ごした。その後の今も、膝掛けとして会社の引き出しの中で眠っている。

くすんで毛玉だらけになったマフラーだが、見るたびに蘇るあの時の記憶は、未だに鮮明のままだ。