金木犀の香りがするたびに、秋だなという思いと苦い思い出が蘇る。

母親はつまらない教えを伝授するのが大好きな人だった。
トイレの電気を消すとお化けが出るだとか。夜露は神様の涙だから、神様が使えるようにハンカチを干しておくことだとか。コーラを飲むと歯が溶けてしまうので、牛乳をその後に飲んで歯を元に戻さなくちゃいけないだとか。くだらない嘘の教えを山ほど教えてくれた。

その中の一つに「恋人には花の名前を一つ教えてあげること」が含まれていた。
「その人の人生に彩りが生まれるからね」
当たり前みたいに女性は男性を好きになると思っている母は、当然のように「男性は花に疎い」と思っていた。だから、花の名前を教えてあげるのは、女の役目なのだと。
そんなところも、くだらないと思っていた。

彼に教えてあげたくて、山ほど花の名前を覚えた

しばらくして、母は家を出ていき、そんなくだらない教えもほとんどが闇に葬られた。私は大学生になった。
北海道出身の彼氏ができた時、2人で秋の街を歩いているときにふと彼が足を止めた。
「甘い匂い。これなんの匂い?」
「……これ?金木犀の香りだよ」

そばに金木犀の木が生えていた。オレンジの小ぶりの花びらが空から落ちた星みたいに黒いアスファルトの上に散らばっていた。
北海道には金木犀は植えられていないらしい。彼は初めて嗅ぐ匂いだと随分と嬉しそうにしていた。

「秋の花で、花言葉はね、確か初恋なんだよ」
母親の受け売りだった。秋口に2人並んで歩いているときに、何度も同じことを口にしていたから、私はすっかり無意識に覚えてしまっていたのだ。
「へぇ、知らなかった。物知りだね」

それから彼に教えてあげたくて、山ほど花の名前を覚えた。ひまわり、百日紅、コスモス、孔雀草。その中でもとりわけ金木犀だけ確かな香りを放っていた。

どこもかしこも金木犀の香り。秋を歩くのは地獄になった

年下の彼とは別れた、母親とは今も会っていない。
どの季節も散歩をするのが地獄になった。教えた花の数だけ毎年、毎季節咲きやがるからだ。とりわけ、秋を歩くのは地獄になった。どこもかしこもあの匂いがするからだ。金木犀の香り。

他の花なら咲いてるだけで無視できても、金木犀は違う。嗅覚を刺激する。栗の花の方がまだマシだと思った。
その匂いを嗅ぎながら、いつか彼が新しく誰かと付き合ったときに金木犀を嗅いで「金木犀の花言葉は初恋なんだよ」なんて笑うこととかを考えると、ひどくむしゃくしゃする。

花なんか教えるんじゃなかった。花なんか教えられるんじゃなかった。
私に愛してると言ったその口をつけたまま、意気揚々と去っていった人たちのことを思うと、心がぽっかり空いてしまったような心地になる。

愛している人に、思い出を綺麗なままで残してあげること

ひまわり、百日紅、コスモス、孔雀草……金木犀。花は毎年咲く。義務みたいに忠実に。
彼と別れてもう2年経った。あんなに傷ついた終わり方だったのに、もう今は違う人の隣で咲いている。

「金木犀の香りがするたびに、君のことを思い出すんだよね」
新しい恋人はそう言ってはにかんだ。嬉しいような悲しいような苦しいような気持ちで、一瞬くらっとする。地面を見ると、当たり前みたいに空に登らないオレンジの星が足元に散らばっていた。

愛している人に私たちができることは、思い出を綺麗なままで残してあげることかもしれないな。この先ずっと、彼にとって金木犀のその香りが、綺麗な記憶を思い起こすものであってほしい。
金木犀の香りが裏切りや、悲しみと直結しないように、それがそのまま「初恋」を意味するように、今度の恋こそ精一杯大事にしたいと思う。

その花の名前がただの人生の彩りのままであってほしい。