このエッセイを書くにあたって、両親に、
「私の自慢できるところとか良いところってどこ?」
と聞いたら、2人とも返事に困って黙りこくり、何も答えてくれなかった。
つまり、両親にとって私は、何も良いところがなく、全く自慢ではない娘である、ということである。

いじめられ、親に良いところを見出されなくても、自分が嫌いではない

たしかに、自分自身、自分の自慢できるところはどこかと問われたら、すぐに答えることができないかもしれない。
「こんな大人にはなりたくないな」と思っていた大人の条件を満たし、そのうえ精神病院にまで入院した娘である。自慢できるわけがない。

だが、そんな自分が、私自身は嫌いではない。
学校でいじめられても、両親に良いところを見出してもらえなくても、病んで会社を辞めてしまっても、それでもしぶとく強く生きているところなど、自分自身すごいと思う。これは自慢してよいことであろう。
クラッカーでも鳴らし、花火を打ち上げ、盛大にパレードを行われてもおかしくないくらい、すごいことだと思う。

死を考えても生きているのは、エベレストの如く高い自己肯定感ゆえ

どれだけ否定されようとも、自分を嫌いにならない子供だった。
「私を否定する周りの方が間違っている」と思う、良くも悪くも自己肯定感の高い人間であった。今も、こんな文章を書いているくらいだからそうである。
金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」が国語の教科書に採り上げられ、「みんなちがってみんないい」という考え方を教わったはずなのに、現実では「周りと違う」私は否定され続けた。
それはとても辛いことだったし、何度も死を考えた。
それでもまだ私が生き延びているのは、ひとえにエベレストの如く高い自己肯定感ゆえであろう。
私は私の考えを、基本的に間違ったものだと思っていない。沢山ある中の考え方の一つだと思っている。だから、自分と違う人の考え方も、否定するつもりがない。そういう考え方もあるのだな、と受け止めたり受け入れたりするだけである。

なぜ(私の周りの)多くの人々は、自分と違う考え方の人を、マイノリティの人々のことを否定し拒絶するのだろう。
「そういう考えや見方もあるのだな」と思うのではいけないのだろうか。
無理に自分の意見を曲げろとは言わないが、人の意見を否定する必要はあるのだろうか。この世に答えが一つである事例なんて、ほとんどない。
自分は自分、他人は他人でよいではないか。必要以上に口を出したり攻撃したりするなんて、ナンセンスである。

誰かから否定されても、自分だけはどうか自分のことを否定しないで

これを読んでくれているあなた。
もし誰かから否定されても、自分だけはどうか自分のことを否定しないで。あなたは何も間違っていない。数ある答えの中から、その考えや行動をあなた自身が導き出したのだ。それは、誇ってよいことだ。
無理に周りに合わせなくたってよい。自分は自分なのだ。
大多数の同じ意見だって尊いものかもしれないが、自分にしか出せない意見はもっと素晴らしいものだと思ってよい。誰にも考えつかなかった答えを導き出せたのだ、それは凄いことに違いない。

もしそれでも自分のことが肯定できないなら、私があなたを肯定する。
今まで生きていて、たくさん考え答えを出して、行動してきたあなたは素晴らしい。
生きているだけでしんどいこの世界で生きているだけで、あなたはえらい。
だからこれからもどうか、自分を大切にして生きていってね。