“黒いスーツに白いシャツ
ボタンは上まで閉めないと失礼
パンプスに笑顔でハキハキと!“
この基準は誰のためなんだろう。誰の何を見つけるために、求められているのだろう。

就活には一つの基準しか存在しない。どうしてもそこに違和感を感じる

見た目で人を図るなんて時代遅れな差別だ。だけど、テレビから流れる性差別やルッキズム発言にいちいちアンテナを張る私に、母は考えすぎだと言った。
確かに今の日本社会の中で、私の望みは高いものかもしれない。だけど好きでもないシャツのボタンを上まで閉めると、外からの物差しを身に付けているようで息が詰まる。
個性やSDGsという言葉が多様に謳われる時代の中で、性別の前に自分自身を見てほしいという願いは、本当に求めすぎなのだろうか。

私がスーツを着たくない理由は、だからカラフルな服を着て目立ちたいからではない。
応募者は1人1人異なる個性があるのに、そこには1つの基準しか存在せず他のチョイスがないことが違和感なのだ。
そしてそれは面倒だから、と言って妥協するものとしてはしんどすぎる。

現在私の髪色は黒だ。でも将来自分らしさが変わって、髪をピンクに染めたくなるかもしれない。その時、形式だけの基準から外れることに、自分の勇気を使いたくない。
だって本来それは新しいことに挑戦し、気になっていた人に会いにいくために充てることのできた勇気だから。そして好きな仕事をするために、採用者にどうすれば自分に興味を持ってもらえるか悩むために使うことのできた時間だから。

なぜ就活では強みだけをアピールする?短所ほどアピールすべき個性

私は愛想笑いができない。人前でハキハキと早くしゃべることも苦手だ。でも私はその分言葉を大切にできていると感じるから、そんな自分が好きだ。

その個性も就活においてはチェックが入る。相手に失礼のないよう、笑顔でキラキラとしないといけない。でも、無理に笑わないことは優しくないことを意味するのではないし、話すのが遅いことは、何も考えてないこととはつながらない。

誰が何のために設けたか分からない基準にはまろうとした時点で、少なくともその人のキラキラ要素である自分らしさに蓋をしなければならない。
そして思う、私の短所ほど本来アピールすべき個性じゃないのかと。

どうして就活では自分の強みだけをアピールするのだろう。それってなんか張り合ってばかりで、ある意味脆い気がする。だからもし私が採用担当者なら、就活を弱さも同時に表現できる場にしたい。
私はその人の優れた所と同様に、弱さを見た時自分との共通点を見つけたように感じ、魅力を感じる。

2年後、社会が変化しているとは思えないけど。自分らしく就活を

「○○が苦手です。そして○○は得意です」
数えきれない企業の中に、こんな面接がいくつかあってもいいんじゃないかと思う。別に弱さを見せることは、強さを消すことにはならないから。
そして服装や髪型は自由にしたい。相手が好きな服装や髪型で来てくれた方が、少ない面接時間の中で、相手を少しは理解することができると思うからだ。

でもそれは必ずしも派手で目立つスタイルを求めていることを意味するのではない。Tシャツにジーパンでも、古着のタイダイTシャツでも、それはその人の個性だ。

そしてもう一つ私が就活に億劫な理由が、面接会場のあの堅い雰囲気だ。ピンと張りつめた「静かに準備!」という雰囲気の中では、そこからテンプレ通りにしないとモードがじわじわ来る気がする。
だからその緊張を砕くために、採用担当者の人も自分の弱い部分を面接者にアピールすればいいんじゃないかと思う。

「この人、朝苦手なんだ!」
「忘れっぽいんだ!」
「中途半端に終わらせちゃうんだ!」
どちらかが話しつづけるのではなく、お互いが自分の弱さや強さをシェアすることができれば、就職活動も戦場ではなく、出会いや発見の場になるんじゃないか。そんな就活なら、私はしたい。

正直、自分が就活をする2年後、社会がそこまで変化しているとは思わない。でもこう自分の思いを言葉にすることで、スーツに好きなバッジを着けて、ゆっくり話すことくらいはできると思う。そうして少しは自分らしく、我がままに就活をしていきたい。