中高生の頃、人から「あなたらしいね」と言われることが好きだった。
私のいた小さな世界では当然のようにお互いを認め合い、尊重していた
小さな中高一貫の女子校に通っていた私にとって、“個性”はひとりひとりに宿る輝きのようなものだった。
クラスメイトと買いものに行ったときに「これがいい!」と選んだものを「あなたっぽいね!」と言われることは、自分自身を肯定してもらい、認めてもらっている、そんな心地だった。
そして私自身も周りの人の決して否定しない、受け止めることを自然と身に付けていったと思う。
私のいた小さな世界では当然のようにお互いを認め合い、尊重していたように思う。
「あなたっぽい」がちょっと皮肉めいた、否定的な意味に変わっていったのは多分就活をしている頃からだ。
就活の時、全員が全員黒いスーツに身を包み、髪の色も黒色に戻し、無個性を強調していた。それはきっと「どんな環境や人とも馴染むことができます」という意味だったんだなと今なら思う。
それでも志望動機や自己PRでは個性を求められる。しかしその“個性”は“一般的な範囲”に収まった個性であり、つまりは“普通”を求められているのだと私はある日気づいた。
面接官の言葉によると、私の個性は社内では認め難いということだった
その日の面接で、私は提出した自己PRとその面接のために作成した企画書について、「あなたらしくていいと思うがうちの社風には合わないと思う」と言われたことがあった。
学生の考えた企画なんてたかが知れているけれど、それでも一生懸命考えたし、考えた時間はとても楽しかった。そして自分らしさを全面に出した自信作でもあった。
面接官に言われた言葉は、その会社の中で私の個性は認め難い、ということだった。
とても悲しい出来事ではあったが、今まで自分が所属していた場所がたまたま自分の個性を認めてくれる場所だったのだろうとも思う出来事だった。
きっと人の思う“普通”なんてひとそれぞれだろうし、ひとがたくさん集まる場所では当然許容できる“普通”の範囲も変わってくるはずである。
だったらせめて私個人だけでも、その人の個性や考えを認め受け止める、“普通”にこだわらない生き方をしていこう、私はこの日を境に決意をした。
でも一方でこの一件によって「己をさらけ出すこと」について臆病になった私は一般的な“普通”の範囲からは漏れたくないと思うようになった。
私自身は普通に就職し、普通に働く。平凡な日々を送る
それから数年経って、決意した割に私自身は普通に就職し、普通に働く日々である。
たまに友達や家族と会って、食事をして当たり障りのない世間話をして過ごす日々はとても平凡だと感じる。
そういえば、子供の頃は友達や家族に気を使うことなんて滅多になかったから喧嘩することも当然のようにあったし、喧嘩した後は以前より仲良くなることも当然あった。言葉や拳で殴り合った後は自然とお互いの行動や言動を反省し、相手のことも自分のことも深く知る機会だったはずだ。
人とぶつかることなんてもう何年もしていないなあ、と平凡な日々を送る私は思うのだ。
きっと人とぶつかることはよくないことで“普通”は避けて通る道だからなのだろう。
何かを始めてみたい、そう思った私は文章を書いてみることにした。もしかしたら平凡だと思っていた日々も思い込んでいただけで書き出してみたら輝いているかもしれないのだ。
波風立たない日々は穏やかでまるで晴天のような日々だ。
でも波風あったほうが、いい波に乗れたり、見たことのない景色をその後に見れたりする可能性があるのだ。
思ったことを言ってもいいし、たまには人とぶつかってもいいのだ。無理に“普通”になろうとしなくてもいいし、好きなものは好きと言っていい。たとえ誰に何を言われようともその人の良さはその人にしかないのだと私は信じたい。
波風のある人生のほうが味のある素敵な人生のような気がするのだ。