今思えば、就活が「うまく」いかないことは当然のように思われた。
在学中に注力したことなんてない。サークルもほとんどやってない。バイトはできなかった。

学内では内定の声が聞こえてくる一方、自分は面接に行けば行っただけ、お祈りされる。
面接で「学生時代に苦労したこと」を聞かれ、「摂食障害になったこと」と答えてドン引きされた。苦労して克服した本当のことだったが、正直な答えと受かる答えは違うと、はっきりと認識した。

就活はやりたいこと探しではないけど、当時の私はそれができなかった

うまくいった人たちは、よく「『自分の軸』を見つけよう!」と言っていた。この言葉が嫌いだった。
私は、自分がしたいこともわからなかったし、「軸」なんて知りたくなかった。

はっきりした意志を持つことは頑固さと同義だと思いこんでいたし、自分を知ったら変化を恐れるようになると思っていた。「頭の固い大人にはなりたくない」と、考えることを回避した。
圧倒的に就活には不向きである自分とともに、就活期間中過ごさなくてはならないので、辟易した、悲観した。卒業するときになっても就職先はやっぱりなかった。

今思えば、就活は、「やりたいこと探し」だけではないし、就活成功のために「自分の軸」を探すのがバカらしいと思っていたから、考えたくなかったのだと気づく。

就活のときの会社選択について、当時の私のゆらゆらした基準は、世間の会社の知名度やイメージで、それがほとんど全てだったように思う。
イメージは多数の他人が決めたものに過ぎず、自分の適性とは関係がない。会社に偏差値はない。なのに、あたかもそれがあるかのように錯覚していた。

実際学生なんだから働いたことはない。だからイメージ頼りになるのは仕方がない。しかしこれこそ、自分の気持ちとはかけ離れていた。今となっては、あくまでも、会社はありたい自分に近づくための手段にすぎない、と思う。
目的地を考えていない私に、どうやって行く?と聞かれても答えられない。それは仕方ないことだった。

適職や「やりたいこと」を見つけるのは、就職してからでも遅くない

たとえ運良く希望する会社に入社できても、やめていく人は多い。多くのストレスの原因となる人間関係については、入社してみないとわからない。

そう思ったら、就職するのは経済的な側面も大きいように思える。働いてみれば、社会の中で立ち回っていくスキルはつくし、賃金も得られる。
ひとまず働いてから、「こんなものか」と知り、それからやりたいことを見つけても、まったく遅くない。私の場合、働いてから自分の知らない一面に気づけたし、自分についてよく考えるようになった。

無意味と言われた文学部。だけど、ここで学んで良かったと思えてる

ぶれぶれの就活で当然の「無い内定」でも心を保てたのは、「文学部」にいたことが大きい。しかし、周囲からはよく「文学部無意味論」を聞かされた。

「文学部って就職不利だよね。一番遊んでるし、苦労すると思うわ」。当時付き合っていた理系の恋人は言った。
「『社会のためになる』には文学部は選べない。いいね、行けて」。政治家を親に持つ同級生に言われた。

自分で選んだ学部だったので嫌になった。私が価値だと思っていることが、周囲の人間には無意味なことかと、最初こそ失望した。
文学部では読みづらい古典を読み、分厚い哲学書に苦闘した。「おや、学生さん。君に分かるようには書いてないんだよね~」と気難しい思想家からメッセージをもらっているようだった。こちらの就活のことなんてお構いなしで、「それはそんなに大切なのか?」という感じに、励まされた。

正解がない問いに、何時間も向き合い、結果が出ないことに対して、いかに自分なりの納得ができるか言語化する体験は、大学で得た貴重なものだった。
仮に就職には役立たないとしても、この世には解決できないことがたくさんあると身にしみて分かった。それが社会に出てからの余裕に通じている、と今は実感する。
「文学部無意味論」を唱えていた人たちに対しては、「大学は就職のための予備校なんですか?(私は学びたいことがあるから文学部にいて、学問に優劣はないと思います)」と言って撒いた。実際はまったく熱心でも優秀でもない学生だったが、こう答えると気持ちよかったし、効果もあった。
彼らは概ね学問に一目おいている奴らだったからかもしれない。

多面的な私の人生は、どの面を伸ばしていくかを考えることが大切だ

人生は一続きで、連続性がある。
続く日々の中で、立てた目標に向かって最短経路を取ることは、効率的だ。就職のための大学選択というのもその点で堅実なものだろう。でも、私は「将来の役に立つ」「他人にわかりやすく成長する」ことが最善と思わなくなった。その将来は実は確証されていないし、他人の評価はうつろいやすい。

人間にはいろいろな面がある。仕事人であったり、誰かの娘であり、誰かの恋人であったりする。好奇心が旺盛だったり、やさしい心を持っている。肩書のないかわいい面だっていくつもある。

多面的な自分のどの面を伸ばし、どこを究めるか。どう自分自身がありたいか。
そういうことをゆっくり見つめることが今となっては就職より大切に思える(仕事によって、ありたい自分が磨かれたら、それもまた素敵なことだ)。

当時他者から無意味だと思われたことは、実は私にとってのオリジナルな面を磨いてくれていたし、他の面にもいい影響があったみたいだ。
「自分サイコロ」の目がどこを向くかは、その時々で違う。光を集める目も違う。自分サイコロの好きな目を、そっと大切にしていればいい。

そうしているうちにまたサイコロはころころ転がって、続く、つづく、日々になる、人生になる。