「ひねくれ」は私のモットー。人と違うと思われたかった私

私は幼い頃から、「人と一緒である」ということが嫌いだった。
周りがレースのついたスカートを履いていれば、私はブルーのデニムを履いた。「たまごっち」が流行ったときも目もくれず、私は図書室にあった偉人マンガを読んでいた。
単に目立ちたいのではない。尖っていたい性分なのだ。

流行の一歩後ろで、「まだそれが好きなのか、皆時代遅れだな」と思うような、そんな感じ。
「ひねくれている」と言われたらそういうことになる。しかしその「ひねくれ」は今も続いており、私のモットーなのだ。
私にはずば抜けた個性などない。でも、「人と違う」と思われたい。ここまで読んだあなたには、きっと面倒くさい奴と思われただろう。

気付けば流行り物に中指を立てていた。
「誰も聴いていないから」という理由でマイナーなバンドを聴き、散財するほど大好きだったブランドの洋服を、「最近流行ってきたよね」という友人の一言であっさり手放したりもしていた。

「人と違う」を大切にしすぎた私は、好きと嫌いが分からなくなった

しかし良いものというのは、必ず誰かがそれを発掘し、「流行り」へと昇華していく。
そうなったときが卒業の合図だ。「流行り」になってしまったら最後、私がそれを追いかける必要はない。それがどんなに良いものだったとしても、私はサヨナラをし、新しい何かを探す必要があった。

人と違う方へ、さらに違う方へと進んでいくほど、周りからは「個性があってステキ」と言われた。自尊心が満たされた私は、より違う方へと加速していった。
思えば、趣味も部活も進学先も、あまり皆が選ばない方を選んでいた。私にとっては、「人と違うか」という基準が最も大切だったのだ。

そうしていくうちに、自分は何が好きで何が嫌いなのか分からなくなった。
自分が着ている服、聴いている音楽、食べているもの……自分を取り囲んでいるもの全て、誰かに奪われてしまう気がした。自分の選んだものを信じることが出来ない。

当然である。自分の心からの「好き」「やってみたい」という声を聞こうとせず、「人と違うか」というたった一つの基準で押し殺していたからだ。
それってつまり、人の選択肢に左右されているじゃないか。
考えれば考えるほど息がつまり、とても苦しくなった。

人に流されるのも、流されないのも、どちらも良いと知った

そんな私を、じんわりとほぐしてくれた言葉がある。
「他人に流されるということは、自分では思いもしなかったところに行けるということ」
マツコ・デラックス氏が言った言葉だ。
この言葉を聞いて、私は心の底から納得した。
「他人に流される」。つまり「人と一緒である」ということは、悪いことだけではなかったのだ。

自分と全く同じ人間など存在しないし、どんな人も、生まれた瞬間から唯一無二の存在だ。それを頭では分かっていても、自分の中に落とし込むのはとても難しい。
だから、私の中の「違っていたい」という気持ちも残しておくことにした。
「皆とは違っていたい」と踏ん張っていた私も、それはそれで愛おしいのだから。
今私が着ている服も、恋人に「着て欲しいな」と言われて買った。友達にすすめられて、深夜ラジオも聴き始めた。その服はとても気に入っているし、ラジオは毎週の楽しみになった。

人に流されたって、流されなくたって、どちらでも良い。いや、どっちも良いのだ。
私は、それぞれの良さをつまみ食いしたい。
そう思えた自分のことを、ここで自慢したい。