「こいつぶん殴ってやろうか」と本気で思ったことが、覚えている限り、人生でたった一度だけある。
思っただけなので実際に手を出してはいない。というか殴り合いのケンカなんて、人生で一度もしたことがない。
ただ、なんなら今でも「ぶん殴ってやれば良かった」と思っていることである。
「ジジイじゃん!」瞬間的に怒りが湧き上がった
確か小学校高学年頃の出来事だったと思う。休日、父と地元の百貨店内を歩いていた。
どういう流れでかはわからないが、家族四人で外食することになり、レストラン街に向かう途中だったのだと思う。母と兄は別行動で、わたしは百貨店内で父と合流して、目的の店に向かうことになっていたのだろう。
当時もう思春期に入り始めていたわたしは、父と二人きりで歩くのが正直嫌だった。家族にしては開きすぎと言われないギリギリの距離を保ち、会話もあまりなく、イライラそわそわしながら建物内を歩いていた。
紳士服売り場の脇を通り過ぎたところで、男児とその母親の親子連れとすれ違った。男の子は小学三年生くらいだったろうか。彼はすれ違いざまに父のことをまじまじと見てきた。
すれ違って少しして、数メートル後ろから男の子のものと思われる、無邪気でがさつな大声がわたしたちを追いかけてきた。
「ジジイじゃん!」
父のことを言っているのだと、とっさにわかった。
そのときほど、瞬間的に怒りが湧き上がったことはない。
「ぶん殴ってやろうか」と思った。いや、「殺してやる」くらいに思ったかもしれない。
男の子を思いっきり睨みつけた私。父はなんとも言えない顔をしていた
父は30代のときに病気をした。
この歳になってもまだ思春期をこじらせているわたしは、あまり詳しく話を聞いたことがないからよく知らないのだけど、脚の骨が溶けてしまう病気だそうだ。骨が溶けては当然歩くこともできなくなるため、手術をして人工骨を脚に入れた。それ以来、父は歩行時に杖をつくことが多くなった。
調子が良い日は杖無しで歩いているし、元来健脚の人なので普段から(杖があろうがなかろうが)他の家族より歩くのも速い。座りたいがために杖を使わず電車に駆け込んで、いけしゃあしゃあと優先席に座ったりするので、杖はコスプレなんじゃないかと疑うこともあるくらいだ。
けれど、湿気の多い日の朝に脚を押さえてうめいていたり、目算が狂い長い距離を歩きすぎて脂汗を滲ませていたりすることもあったので、脚が悪いのはどうも嘘ではないらしい。
かのわんぱく坊主とすれ違った日も、父はわたしの隣で杖をついていた。「杖をついている=年寄り」という図式がいくら短絡的だとしても、小学生の子どもでは仕方のないことかなと思う。
それを見ず知らずの他人にぶつけるのはさすがにどうかと思うが、当時40代くらいでまだ「おじさん」である父が杖を使っているのを見た驚きで、思ったことがそのまま口から出てしまったのかもしれない……と、大人になった今なら譲歩できる。
しかし、小学生のわたしは違った。
許せなかった。
声が飛んできた方を振り返り、男の子が同じようにこちらを振り向いているのを見て、思いっきりその顔を睨みつけた。他人の顔をあんなに気持ちを込めて睨みつけたのは後にも先にもこのときだけだったと思う。
睨みながら見た男の子は、憎たらしいことに怯えた様子も何もなく、驚き半分笑い半分の表情をしていた。わたしの怒りは効いていないようだった。
父を盗み見ると、少し俯き加減でなんとも言えない顔をしていた。
家族が嘲笑されると怒りが一瞬で湧き上がるのは、なぜなんだろう
どうしてあそこまでの怒りを覚えたのだろう。改めて振り返ると今でもうまく説明ができない。
そもそも「ジジイ」は純粋な罵声なのか?当時のわたしは老いをそこまで敵視していたか?
赤の他人を囃し立てる行為自体は失礼なことだ。けれどそれだけでは、わたしがあそこまで原始的な、野蛮な怒りに駆り立てられた理由にはならない気がする。
自分の父が「ジジイ」呼ばわりされることの、何がそんなに嫌だったのだろう。わたし自身が罵られた訳でもないのに。自分で気づかないうちに、父親が杖をついていることを後ろめたく思っていたから、図星を指されてカッとなったのか。
家族をけなされることはどうしてこんなに腹が立つのだろう。もし嘲笑されるのが自分であるなら、怒りよりも恥ずかしさや悲しみが先に立ち、黙り込んでしまうだろう。
嘲笑の対象が家族となった途端、あくまで他人事であるはずなのに、混じり気のない怒りが一瞬で湧き上がる。それは本能的なスピードだ。他人でありながら自分の一部であり、自分がその一部でもある。家族とはとても業の深い集団だなと思う。
この話を父としたことはない。あのとき父がどう思っていたのかはわからないし、十数年経った今、あのときの気持ちを尋ねる勇気もわたしにはない。
先に少し書いたように、わたしはこの歳(27歳)にもなって家族に対する色んな感情をこじらせている。「愛」「憎」どちらのベクトルでも、家族への想いを一言で表すことはできない。
だけど、「父の代わりに怒ってあげれば良かった」「暴力を振るってでも、怒りを表に出せば良かった」と悔やむこの気持ちは、わたしと家族との関係において、真実のうちの一個なんだろうと思っている。