わたしは人の気持ちを慮って気遣いをすることが、ものすごく得意である。
この人は今こう思っているな、この一言が欲しいだろうな、これをやっておいてあげよう、あれが理由で怒っているのかな、ああ表情に悲しさが浮かんでいる、とか。
自分でもびっくりするくらい、そういうことに敏感に気付くことができるのである。
気遣いのできる私は、次第に人への気遣いに自分をすり減らしていった
特に社会人になってから、この自慢の特技は重宝した。疲れた顔をしている上司に何かありましたか?と声を掛け話を聞いたり、意見が食い違っているときには雰囲気を良くするようなことを言って話を穏やかにまとめたりした。この特技は、職場で”気遣いのできる人”として、私の評価を上げることになった。
また私自身も気遣いのできる自分を誇らしく思い、こうして自慢の特技をどんどん使うことになるのだった。
今はイライラしているときだと思って切羽詰まった仕事の話をしにいくのをやめたり、好きでもない偉そうな年長者達にすごいですねえ!と高い声で大袈裟に褒めたり、意見することよりも場の雰囲気を第一にしたり。
次第に自分の気持ちを押し殺して行動し、人への気遣いに自分をすり減らすことが増えてきたのだ。
元来、私は根は繊細だが、言葉と行動は我が先の王様気質である。特に、脂にまみれた欲深く汚い年長者を褒めることは、王様の私にとっては、気遣いを通り越してもはや譲歩、支援、憐憫の情を表したようなものである。
自分の評価が大切だったときは、苦笑いを貼り付けつつ気遣いを頑張ることができたが、ある日気付いたのだ。
無理な気遣いの先に思うほどの結果は残らないことを。
「1日くらい本音で話したい」自慢の気遣いをやめようとおもった瞬間
評価してくれるのはいつも、自分と同じくらい他者への気遣いができる人だ。私が頑張って気遣っていることに気づき、彼らもまた私を気遣って私を評価する。
しかし、四六時中イライラしている上司や承認欲求の高いお年寄りは、そこまでの考えにも至っていない。私達のステージまで届いていないのだ。
彼らは一切他人のことは見えていなくて、自分の欲求と自分のことしか頭にない。だからこそ、相手がNOとはっきり言うまで他人の感情が全く理解できなかったり、他人の思いやりや気遣いに気付かず自己を優先しようとする。
そしてある日、通勤時いつも通り聴く大好きなエド・シーランの曲にまったくテンションが上がらず、1日くらい本音で話したいな……と思ったときに、自慢の特技であった気遣いをやめた。
本音で話せない日々の何を持って、人生と呼べるか。そうして私は王としての振る舞いを取り戻した。
あいさつは戦い、大声で先手を取れと教わってきたが声量は今までの半分。気分屋の上司とは必要以上に目を合わせない。視界に入れない。叩き台を作る仕事や上司から渡された修正をする仕事に感情を入れない。自分の100%の力や気持ちを尽くして仕事をしない。完璧な自分であろうとしない。必要以上にすみません、とありがとうございますを言わない。
他者の意見を聞いて言いづらくなるまえに思ったこと、意見は誰よりも早く言う。分からないところは聞きやすい人に聞く。場の空白を埋める会話はせず、本当にその人としたい話をする。
こうして私は気遣いをやめた。正直、まだ居心地としてはむずむずする感じがあるが、自分をすり減らしている疲弊感はなくなった。
過剰な気遣いという大きすぎる愛を、まずは自分自身に向けてあげよう
無理な気遣いが悪いとは思わない。気遣いのできる人は本当に優しい人である。
気遣いの見返りを求めるな、本音を言葉にしろ、合わせるのがいけないという自分勝手な人間もあろうが、それは正論という旗を振りかざして強くなったように感じている、現実や他者に盲目な気遣いを知らない人間たちの言葉だ。本当は周りを気遣える人が本当に優しくて温かい人で、その人達が報われるべきなのだ。
だが私がすり減っていったように、過剰な気遣いという大きすぎる愛は、まだこの世には少々早すぎるように思う。
だからこそ私たちは、堂々とその愛を自分自身に向けるべきである。
他人よりもまずは自分を気遣う。ちょっと余裕があれば、困っている人を気遣う。このくらいでいいのだ。
あるがままで自慢の自分をこれからも大切にしつつ、闊歩してゆきたい。