「高校時代の友達は一生の友達になる」。学生時代。ホームルーム中に普段は仏頂面の担任教師が突然、不器用に顔をほころばせながら口にした。
するとビールっ腹はみるみる凹み……薄くなった髪の毛がふさふさと息を吹き返し……てはないけれど、でも何故かとても身近に、それも大人としてではなく同い年の男の子のような口ぶりと雰囲気で軽妙に言葉を続けた。
「この前、高校の友達と久しぶりに会ったんだけれど、不思議なんだよな。もうオジサンなのに会うと、戻っちゃうんだよ、高校時代に。肩なんか組んじゃって、馬鹿笑いしてさ。そういうことが出来るのって、やっぱり高校時代の友達なんだよな、何故だかわかんないけれどさ」。
一時間目を告げるチャイムの音に阻まれてしまい、先生はすたこらと職員室に退散した。その足取りはいつもの哀愁漂うものではなく、何処か楽しそうだった。
私が先生と同じ年齢になった時、一生の友達がこの学び舎にいるのか?
私はというと、高校時代の友達の話をしただけで先生ったらなんて嬉しそうなんだと思いつつ、次の授業の支度を始めていた。教室はざわつき、誰も先生の珍しくほころんだ顔を話題になどしていない。昨日観たテレビ、来週から始まるテスト、大人気アイドルの総選挙……そんな話題で満ちた教室で私はひとり、ほころんだ先生の顔を反芻して思った。
「私が先生と同じ年齢になった時に、私の顔をあんなにとろけさせられる友達が、一生の友達がこの学び舎にいるのだろうか」と。
時は過ぎて現代。高校を卒業して、早9年が過ぎようとしている。SNS上の指先一つで絶縁出来る、顔も知らない薄い友達ばかりが増えていく……。友達よりも同僚やら上司やら煩わしい単語に染まる日々で、友達という言葉自体が甘酸っぱすぎて、青すぎて、気恥ずかしくなるが、あの頃の先生の年齢にはまだ達してはいないけれど……最近「一生の友達」と言われて、頭に数名の顔を思い描けるようになってきた。そして、その友達らには不思議な共通点がある。
それは一度、1年以上の絶交をしているということだ。「じゃあ、もういい。絶交ね。明日から話しかけてこないで」「なにそれ!感じ悪い。あんたって最低」。きっかけは思い出せないような些細な事である。
一緒に帰ろうと約束して、その約束を忘れられていたとか、貸していた漫画を返すのが遅かっただとか……そんなもの。中には喧嘩を1年以上したのに、本当に思い出せないものもある。
高校生の頃、自分が怒っているのを示すため「絶交」という言葉を使った
このエッセイを書くにあたって、「ねえ、高校生の頃1年くらい喧嘩してたけれど、あれって理由なんだっけ?」と友達に聞いてみた。
しかし友達も、「ああ、かなり長い間お互い無視したりしてたよね。でも……何がきっかけなんだっけ」と当の本人らも完全に忘れているものもある。それくらい些細なことなのだ。
大人の私がもしも、高校生の私に「友達と絶交したの!理由はね……」と相談に乗られたら、「なあに!そんなことで!?」とチューハイ片手に笑い飛ばしてしまいそうなこと。
けれども学校と家、それから塾くらいしか活動範囲がない私にとっては、友達と一緒に帰る時にあの話しよう、この話をしようと準備したものが披露できなったり、一日二日漫画を返し忘れただけでも、心の中の怒りを烈火のごとく滾らせるには十分な着火剤なのである。
高校生の私は、怒ると「絶交」という言葉をよく使った。誰にも心の内は見えない。自分がどれだけ怒っているかを伝えるに相応しい怒りの最上級の単語だと思った。「嫌い」や「最低」よりも重みがある。なんせ交わりを絶つのだから。
「絶交」のカードを切ると、大体の友達は「なによ!」と言い返してきて、そこから冷戦がはじまった。わざとらしく、ぷいと廊下で無視をしてみたり、いつも一緒に行っている移動教室も違うグループに混ぜてもらって「あの子ったら約束破ったんだよ」と被害者ぶってみたり、お揃いでカバンにつけていたキーホルダーをとって通学する。仲が良かった頃に貰った手紙を目の前で破いて捨てる……なんて、今思うと最低な行いに及ぶこともあった。
はじめこそはすがすがしい気分で、ふふんと横目で見る元・友達の寂しげな顔に優越感でいっぱいになるのだけれど、でもじわじわとその一挙一動が自分の首を絞めていることに気が付く。
学生の時「絶交」した友達、今でも会えばあの頃みたいに笑いあう仲だ
絶交なんて言葉を使ったけれど、本当は使いたくなかった。でも、強い言葉を思い切り投げれば、向こうも謝ってくれると思った……。まさか売り言葉に買い言葉になるなんてと後悔するのだ。
元・友達が好きな芸能人がテレビに出ているのを発見して、教えてあげようとメールを打ちそうになる時、コンビニで元・友達が好きでいつも買っていたお菓子が目に入った時。
どうして「元」友達、だなんて友達の上に変な冠がついてしまっているんだろう……。まあ私がつけたんだけれど。自分の不器用さが情けない。
しかし、雪解けは突然訪れる。お互いに張っている意地が限界でぷつりと切れたように、教室内でひとつの話題で笑って、怒りと意地の自然消滅的に「うけるね」「やばいね」なんて言葉を交わした友達もいる。
仲違いするのが耐えられなくなって、「ごめんね」という涙と汗でしわしわの手紙を渡しあった友達もいる。喧嘩した理由は思い出せないけれど、仲直りした時のことは何故か鮮明にに覚えている……。息遣い、弾む笑い声、赤らんだ瞳。
そんな友達は、今でも会えば高校生の頃に戻ったみたいに手を叩いて笑うことが出来るし、高校生の頃にこっそり回した手紙や交換日記に書いたメッセージみたいな些細な日常の断片で顔をほころばせる友達だ。
セーラー服を纏う頃、「一生の友達」なんて言われてもピンとこなかった。けれども今、まだあの頃の先生の年齢には達していないし、一度大きな仲違いでお互い心に大きな痛手を負ったけれど、それが治ってカサブタになり、同じ新しい皮膚を持つ友達は、これから高校生の時のように馬鹿笑いしたらほうれい線が出来て、「やばいんだけれど」「いいじゃん。私も目尻のシワが気になってるんだよね」と言い合える位までずっと、甘酸っぱい友達という単語で繋がっていて、会う度に共に17歳にタイムスリップしたい。