私は小学4年から中学に上がるまでの3年間、公文に通っていた。理由は子供によくありがちな、仲良しな子が習っているなら自分も通うというもの。

一緒に通っていた子は私より1つ学年が下で、元々は兄同士が仲良くて知り合った。

中学生になり公文を辞めたけど、時々公文の教室へ足を踏み入れた

公文には3人の先生がいて、慣れないうちは少し不安な気持ちを抱えていたし、早く家に帰りたいというのもなかなか消えなかった。家から近い距離にあるけれど、通る道は暗くなると人通りが少なく危ない。だから、終わる頃に母が迎えに来てくれた。

毎日出る宿題で、特に嫌だったのは数学。本当に嫌すぎて1枚目と最後のページだけ埋めていたこともあった。間違いが直らなくて、苛立っていることも増えてきた。先生達には負担ばかりで迷惑だったと思う。

中学に上がると、塾に切り替えるために公文を辞めた。中学ではクラスに馴染めなくて友達も多くなかった。早く学校から離れたい気持ちと家に帰りたくないという気持ちが重なって、堪らず公文の教室へ足を踏み入れた。

控えめな声で「こんにちは。お久しぶりです」と言うと、先生は明るく笑って「あらあら、久しぶりね! 元気?」と迎えてくれた。温かさが身に染みて、頑張らなきゃと思わされる。時々、犬を連れて行くこともあった。小さい頃から何度か見ていて犬の成長まで喜んでくれた。

私は同世代の子とは話が合わず、公文の先生と話すだけで落ち着いた

懐かしい教室の風景は今でも忘れない。先生方には、学校でのことも最近のことも話せた。部活動は美術部に入っていて、体育祭の練習が始まっているとか色々……。

近くにいた子に「少し教えてあげて」と言われて、国語を見ていたこともあった。読み上げるタイムを計る。昔の自分を見ているみたいで少し小っ恥ずかしい気分になっていたが、楽しくて先生が帰宅する時間まで教室の下で待っていた。

そこでは幼稚園生の子がパズルで遊んで迎えを待っているので、話しかけて一緒にいた。お母さんの顔を見ると表情が明るくなって可愛らしかった。子供の頃は家族が恋しくなるのかもしれない。

中学生ながらに家族と離れたがっている私は、周りとズレた価値観を持ち合わせている。あんまり考えないようにしていたけれど、同世代で話があった試しがない。上の世代と盛り上がってしまうせいで嫉妬されることが多いのだ。

誰と話していようと自由なのに、担任の先生含めて学年の先生までクラスに馴染めないと見なす。その不公平さが悲しかった。だから公文の先生と話すだけで心が落ち着く。

公文の教室と先生との時間は、私にとって「心の拠り所」だった

高校に上がって、進学先が決まったことを報告しに再び公文へ。「背が伸びたのね。誰かと思って驚いたわ」と先生方。先生方曰く、小学生の私の姿が印象深いから顔を見せに来てくれるのが嬉しいとのこと。私は覚えててもらえることが嬉しくなった。

高校では授業が今まで以上に難しくなっていると苦笑し、ネイティブの先生と話したいけど話せないという悩みを打ち明けたりもした。英語が得意な先生には「話したいと思う気持ちがすごいから、笑って話しかければ大丈夫よ」とアドバイスがもらえた。

言われた通り、休み時間やホームルームで話しかけたらネイティブの先生は喜んでいた。そのうち、「バニー」と「ラビット」の違いを聞いたり、電車で見かける優先席の英語表記が変更されて「~を期待する」という単語が使われていたことも話すようになったりした。

ネイティブの先生は「直接的な意味の単語はやめて表記されたんだね。それにしてもよく気付いた! 素晴らしい」と褒めてくれた。昔から英語にはよく目がいくけれど、やっとその変な癖が役に立った。興味を持ったことを共有するだけでも刺激的で充実感が得られる。

大学への進学が年内に決まり、その報告も公文へ出向いた。大学では表現のことを学べる学部に進んだと話す。書くことが好きで、これからは極めていきたいと正直な気持ちで先生に話した。

不思議なくらい安心する公文の教室と先生との時間。心の拠り所にしている自分がいた。家にいると息が詰まるし、学校にいると我慢して過ごすことを強いられて色んな意味で息が詰まる。緊張が和らぐのは、公文の教室だけだった。

大学時代は忙しくなるにつれて、公文の先生たちに会いたくなりつつ、課題とバイトに時間を費やしていた。その中でもLINEを交換した先生とたまに話をする。

社会人になり、改めて公文に行く。手紙と花束を頂いた。帰宅して手紙を読み、涙が出てくる。見守ってくださっていた先生方への思いが溢れる涙だった。