今日、私は苗字を奪われた友達に初めて会う。いつもはもっと心躍る足取りなのに、なぜだろう。唇噛みしめ涙を堪えて、待ち合わせ場所に向かっている。
友達に会うのを怖いとすら思っている。もしかしたら、私の知っている友達ではないのではないか? オカルト的な妄想が私の皮膚を泡立てて、悪寒を誘う。

結婚した友達の苗字が変わっていく。誰もが違和感なく苗字を奪われる

友達を呼ぶ時、苗字をもじったニックネームで呼んでいた。でも、もうこれからは友達をその名で呼べない。いや、呼ぶことは出来る。きっと友達も「なあに?」とセーラー服を着ていた頃と変わらず、優しく振り向いてくれるだろう。
けれど、慣れ親しんだその苗字はこれから「旧姓」と呼ばれ、これから彼女に出会う人達はその苗字を知らない。慣れ親しんだ呼び方で、彼女を呼ぶことは可能だ。けれど私は、過去の彼女を……今もうここには存在しない友達を呼び続けているようで何処か置いてけぼりを食らったみたいだ。
名前なんてただの飾りで、「ロミオとジュリエット」には「薔薇は薔薇という名前で呼ばれなくても香りは変わらない」という台詞もある。けれど、ごめんね、シェークスピア。
呼び方が変わらなくても、友達の誰にでも分け隔てない優しさは変わらないのはわかっている。すっぴんでセーラー服の頃から何も変わっていない。
けれども私は、友達の苗字が変わることがこんなにも寂しい。ただの友達の私に寂しがる権利など、到底ないのだが寂しい。おめでたいことなのに、こんなに苦しくなる自分がつらい。

誰もが違和感なく苗字を奪われていく中で、そうまでして私が強く願うのは両親の存在がある。些細なことで両親が喧嘩をした際に、「こっちは苗字まで変えてやったのに……」そう薄い唇から漏らした言葉が幼い私の耳にこびりついた。
自分の苗字はひとつしかないし、両親は元々別の苗字だったけれど、結婚してひとつの苗字になった……。もしかしたら自分は、今の苗字じゃなかったかもしれない……と違う苗字の親戚の結婚式に行ったり、「サザエさん」で同じ家に住むのに二つの苗字の人がいるのは何故?という疑問を抱いたり、大人に訪ね学んだ。
そして、子供ながらにぼんやりと苗字を変えさせたほうが上で、変えさせられたほうが下のようなイメージを持った。まるで「千と千尋の神隠し」で湯婆婆が千尋の名前を奪ってしまうように。

サバンナじゃあるまいし、愛した人の苗字を奪わず、奪われたくもない

現に両親だってそうだ。変えさせられた側は変えた側の家に染められ、少しでも染まらない点があると「家族なのに」と異質扱いされる。私はそんな空気が嫌で、子供ながらに大人になって結婚するなら私は苗字を奪う側になろうと思った。幼い頃のおままごとでも「私が奥さん。あなた婿養子の旦那さんね」と言って、先生や保護者を驚かせた。
私は今の自分の苗字も好きだが、名乗るかもしれなかった置き忘れた苗字も好きだ。なにかに逆らいたくて、中学生の頃ファミレスの順番待ちの用紙に親の旧姓を書いて、呼ばれて返事をするのが好きだった。
けれども最近思うのは、絶対に苗字を奪う側になりたいと思っていたけれど、もし私が誰かと結婚して誰かが苗字を奪われるのも何とも言えない。それはそれで後味が悪いというか、自分本位な気がする。
第一、同じ苗字にならなくちゃいけないって何故? 所有欲? 別に愛した人の苗字を奪わなくてもいいし、奪われたくもない。そもそも奪う奪われるってなんだ。捕食者と被食者か。サバンナじゃあるまいし。そんなことを愛する人としたくない。自分自身もそうだし、他者に対してもそうだ。

友達が結婚し苗字を奪われると、私の知っている友達はもういないのだと、笑いあっていた日々はなかったことになり、彼女は一度リセットされてしまったような錯覚に陥る。
私は全性愛者で、好きになるのに性別で縛られない。女性とも、FtMとも交際したことがある。少数派の私が結婚観に関して、あれこれ言うと「結婚」という制度がない人間のひがみだとも思われるだろう。
現に私は友達から結婚や出産の報告があると、「ああ、あがったんだな」と心の中で吐き捨てている。あがるとは、双六のゴールを意味する「あがり」のことだ。「結婚は?」「孫の顔は?」と言われ続ける双六から抜けたんだなと。おめでたい事なのに自分の一番嫌なところがどす黒く濃縮されて胸に広がる。
そんなこと本当は思いたくない。けれども、私が結婚という括りで胸を張って幸せになるには、あまりにもハードルがありすぎる。恋愛=男女がするもので、結婚とは男女のみに許された特権で、結婚すると女性が男性の姓に統一する、そして子供をはぐくむ……世間が作った幸せのものさしはそんな感じ。それ以外は不幸。可哀想。同性間で愛し合う人や子供を育む人は空気と同じ透明だ。

結婚相手がいるとしたら、私は苗字を奪われたくないし、奪いたくない

私は今、付き合っている人はいない。でも、近い将来女性でも男性でも、あるいはその中間でも、一生を共にしたい人が現れるかもしれない。その際に今の幸せの物差しだけでは、私は幸せにはなれない。
相手が女性なら、法的な結びつきは認められない。相手が男性でも、私は苗字を奪われたくないし、奪いたくない。もし同性間での結婚が認められたとしても、苗字を奪う制度が残っていたなら、それは駄目だ。
私は別に政治的なことは、よくわからない。支持する政党もない。けれども、早くどちらも当たり前になってほしい。少数派を認める……いや、認めるという言い方もどこかおかしい。だって偉い人に認められなくても透明でも、今この瞬間も私達は、誰かが勝手に作った幸せの物差しの外でちゃんと息をしているから。少数派の存在をよく目を凝らして、焦点を合わせてほしい。それは幸せな人の分母を増やすことだから。

「結婚おめでとう」。待ち合わせ場所に着き、私はアカデミー賞主演女優賞ばりの作り笑顔をして、友達の新しい苗字を呼んでみた。すると彼女はケラケラと、学生時代と変わらず奥歯が見える程大口を開けて笑った。
そして、「やめてよ~。いつもの呼び方でいいって。すぐ離婚するかもしれないし」と、免許や銀行の苗字変えるの大変だったと苦労話をはじめた。
私は今のところ「結婚おめでとう」を言う側が100%。でも、いつか言われる側になれる日がくればいい。隣にいる人の性別は、まだわからない。でも、奪っても奪っていない私のままで、左手の薬指に銀色を輝かせたい。