率直に「どっちでもいい」。
大学生の頃はよく、結婚願望はない、強く生きる、なんて言っていたけど、見栄を張っていただけだ。彼氏がいない歴イコール年齢が恥ずかしいと思うようになったのも、大学生になったあたりからだと思う。

相手の好意を感じてしまうと、素直に受け取れず誤魔化してしまう

大学生活送ってれば自然と彼氏ができるもんだと本気で信じてたが、そんなことはないと卒業してようやく気がついた。そしてもう一つ、好意を受け取るのが苦手だということにも気がついた。

大学生活を振り返ってみて、アルバイトや部活動、留学先で恋愛に発展しそうな雰囲気が全くなかったのかというと、そうではない。ただ、相手の好意を感じてしまうと、素直に受け取れなくて誤魔化してしまう。そうすると今まで遊んでいた友達であれなんとなく避けてしまい、恋愛には発展しないし、こちらから逃げているのだから発展するはずもない。
そうしている内に愛想つかれてしまうのがお決まりだ。そう上手くはいかない現実を知り、自分の問題点には気がついたものの、解決策は未だ見つかっていない。

そんな22年間彼氏がいた生活を送った事がない私にとって、結婚は非現実的で、自分ごととしては到底捉えられない。
それでも同級生や歳の近い人が結婚や婚約しているのをSNSで目にし、社会に出てみれば当然のように結婚している人が多い。両親だって結婚し、私が生まれてきている訳だから、大人になって結婚するのはなんだか当たり前のような気がし、勝手にプレッシャーを感じたりもする。

結婚は家と家ではないし、個人がそれぞれ選択できて当然だと思う

少子高齢化が深刻さを増す中、自分もそれを助長している一人なのではないかと社会に対し申し訳ない気持ちにもなる。その一方で相手がいないからどうしようもない!とも叫びたい気持ちもあったりする。
そんな色んな感情がぐるぐる回っている、今の私が真剣に考えた結果が冒頭の「どっちでもいい」である。最終的に、この人となら生きていけるかもなんて甘い話があれば結婚したいと思えるし、結婚しなくてもそれはそれで自分の人生を生きられる自信がある。

選択制夫婦別姓、私は賛成だ。名前に個々のアイデンティティーがあるのと同じように、苗字にも大切なアイデンティティーがある事は当然だと思う。私個人としては、正直、苗字にそこまで思い入れがないので変えることには抵抗はない。

しかし、家と家の結婚ではないし、家に入るわけでもないので、嫁入りや婿入りといった表現、結婚後に家内という表現もされたくない。

結婚はあくまで、個人と個人の契約だと思うので、個人がそれぞれ選択できて当然だと思う。子供の苗字をどうするのか、についてもそれぞれで決めればいいと思う。クラスに父親の苗字の人がいても母親の苗字の人がいてもなんの違和感もなく、受け入れられる事が一番だと思うので、政治が判断することではないような気がする。

数年後、個々の生き方が今よりも尊重される社会になっていれば

同性婚を含め、ジェンダーについては大学在学中に関心があったので授業を受け、そこそこ「知識と理解」はあるつもりだった。最近、高校の同級生が同性の彼女と付き合っていて、婚約をしているとSNSで告白していた。そこには今まで悩んでいた事や、理解できない人もいるかもしれないが、乗り越えていきたいといったメッセージも添えられていた。

その時、もう当事者の人たちはそもそも「理解」を求めていないのかもしれないと感じた。
考えてみれば、異性のカップルが婚約を発表していることにわざわざ「理解」をしようとは思わない。それが当たり前だと心の中で思ってしまっているから。だから、無意識の内にLGBTQの人たちを「理解」しようとしていたのだと反省した。

理解を深めていくのではなく、社会に浸透し、それぞれがそれぞれの日常を生きていける社会を目指さなければならないのではないかと、同級生のSNSを通じて考えた。

結婚観や恋愛観、社会で議論が必要なテーマについて自由に書いている私だが、数年後にやってくるであろう結婚という「圧力」に怯えているのも本心だ。数年で社会が変わり、個々の生き方が今よりも尊重されていればいいなぁと心から望む。