もし一言で表すなら、「社会契約」だと思う。結婚に対しての語り口は人それぞれあるだろうけれど、私は、この文章を通じて従来の異性愛主義的でロマンチックな結婚について考えてみたい。
高校の同級生と結婚。ロマンチックと言われるけど本当の理由は程遠い
その前にまず、私の話をしなければならない。私は昨年4月に社会人になり、6月末に入籍した。相手は高校時代の同級生で、私の就職と同タイミングで大学に再入学し、現在は学部1年生だ。
高校時代の同級生と結婚と言うと、周囲から「ロマンチック」と言われることが多い。とはいえ大恋愛の末の結婚ではなく、長らく友人として親しくしていた結果、紆余曲折を経て最終的に結婚に至った。それでも傍からすると、いかにも「ロマンチックな」結婚に見えるらしい。
私たちは、制度として使えそうだから、扶養手当をもらえたり会社の社宅に住めたりするから、というロマンチックとは程遠い理由で結婚を決めた。それについてある人から「じゃあ相手のことは愛してないってこと?」なんて言われたこともあるが、なぜ「ロマンチック」じゃないと、愛がないことになるのかが私にはわからない。
私たちは互いを信頼し合い、愛し合っている。だけど、互いに愛していても今の日本では同性カップルは結婚を選べないし、改姓等の理由で事実婚を選ばざるを得ない人もいる。また、愛はないけど結婚する人もいる。本当の意味で皆が結婚できるわけではない世の中で、わざわざ結婚する意味を問われたら、私には「社会契約だから」としか答えようがないのだ。
結婚をロマンチックに飾っても、婚姻制度なんて政治の一部なのに
一生一緒にいたいと思える相手に出会えて、たしかにそれはロマンチックかもしれないけれど、結婚する意味がロマンチックであるとも限らないし、結婚という形でなくてもロマンチックな関係はある。
結婚に付随するイメージには「ロマンチック」がついて回る。某結婚情報誌を開けば「彼と一緒の苗字にキュン」「結婚式はロマンチックな演出を」という言葉がポップに躍る。
どこかに、苗字が一緒になることを喜ばせたくて、「男女1人ずつ」が「恋愛で」結婚すること以外認めたがらない巨大組織でもあるようなうすら寒さを覚える。こういう文言を見るたび、人々がいくら結婚をポップでロマンチックに飾っても、婚姻制度なんて政治の一部なのに、と思う。
その巨大組織は、もしかしたら家制度をロマンチックなキラキラでコーティングして、家制度の持つ政治性には気づかせまいと必死なのかもしれない。だけど、婚姻制度に政治が関係ない訳がない。なぜなら国は国民に次世代の子どもを残してもらうため、子どもを産み育ててくれる「家」の制度を作るし、子育てを支援しているはずなのだから(日本がこの当然のことをできているかと言われれば別の話だが...)。
夏に控えた結婚パーティーは、既成の価値観を打破するものにしたい
そんな思いから、この夏に控えている結婚パーティーは既成の価値観を打破するようなものにしようと考えている。思えば結婚式で行われる儀式も、日本古来のものであれ外国文化として流入してきた習慣であれ、古い家制度観・異性愛主義的な価値観がこれでもかと詰まっている。
父の所有物たる娘から夫の所有物たる妻への変化を表すヴァージンロードに、相手の色に染まることに由来する(所説あり)お色直し、さらには人前で愛を誓う儀式。こんな結婚式を無批判に行うことに疑問を持ったっていいのでは、と思うのだ。
もちろん、従来型の結婚式を素敵だと思い、選ぶことが悪い訳ではない。ただ、そこに含まれる無意識のメッセージが、無意識のまま飛んでくることが私には怖いのだ。結婚パーティーを通して、参加してくれる友人・先生・家族たちに伝えたい。異性愛主義的でロマンチックな結婚の価値観について、一緒に考え直してみませんか?と。