「大丈夫だからね。すぐにいい人が見つかるよ」
25を過ぎたあたりから、祖母は心底心配した顔で私に向かって励ましの言葉をかけるようになった。
昔の人だから仕方ない、と笑顔を向けるが、内心はこう思っている。

え?結婚していない私は、かわいそう?幸せじゃない?
じいちゃんが生きていた頃、「女は我慢だよ」と私達に言い聞かせたのはばあちゃんじゃないか。
ばあちゃんは、結婚していても幸せそうじゃなかったじゃないか。そんなことは忘れてしまったのか。

幼心に感じていた結婚への違和感。嫁の貰い手がいないといわれても…

最近の祖母の話を聞くと、昔はとても幸せだったと考えているみたいだけど、祖父が生きているときにその幸せをちゃんと味わえていたのだろうか。我慢、我慢と頑張る祖母を見て、小さいながらに結婚なんてしたくないと思った。
そんな気持ちを知ってか、両親はあまり結婚について言ってこないのだけど、ときどき冗談まじりに、「そんなんじゃ嫁の貰い手はいないよ」と言ってくる。

遠い昔の話だが、中学校を卒業するかしないかの頃にクラスメートと付き合った。相手は全寮制の高校に行くことが決まっていて、春休みのうちにできるだけ会おうと思っていた。
友だちと遊んでくると言って出かけ、暗くなってから帰ると、帰りが遅いと怒られた。それならばと、朝早く出かけようとしたら、理由はよく覚えていないけど、それもだめだと言われた。

外出する理由を探したり、適当な友達の名前を使って出かけたりすることがだんだん面倒くさくなってしまった。
そうなると、付き合うこと自体が面倒になってしまい、別れた。

実際はその程度の想いだったわけで、放っておいても長く続きはしなかったと思う。でもどこかに、そのときの両親への想いが残っているのか、これまでの恋人を紹介したことはないし、「嫁の貰い手がいないよ」と言われるとつい、「なんで貰ってもらわなきゃいけないわけ」と冷たく返してしまう。

今日好きだから一緒にいる。わたしの恋人はそれを受け入れてくれた

ところで私には、もうすぐ付き合って1年半になる恋人がいる。私は当初2人の関係に「恋人」などと言った名前をつけることを嫌がった。わかってもらえないだろうと思いながら、「ただ、今日好きだから一緒にいる、でいいんじゃない」と言ってみた。
明日好きじゃなかったら、一緒にいない関係。本当はそれを「恋人」と呼ぶのかもしれないが、過去の恋愛や友人たちの話を聞く中で、関係に名前をつけることでその本質を見失ってしまうように思えた。

記念日やプレゼント、しょうもない嫉妬も含めて、こうあるべきという「恋人」のルールに囚われて、不満を募らせ関係がおわる……もっとシンプルに、今の気持ちだけにフォーカスしたいと思った。
自分でも、普通とは違うことを言っているのはわかっていたので、「それいいね」と言われて少し驚いた。彼はそのまま、私の言葉通りに受け入れてくれた。

ただ、結局はあとになって、誰かに説明するときにはやはり名前があった方が便利だということで、「パートナー」とか「恋人」と言う言葉を使うことになるわけだけど、今でもそれはただの言葉にすぎないと思っている。

自分が望めば誰だって幸せに。私たちは「本質」を大切にしていく

それぞれにいろんな形がある。これまでの常識や、本質以外の部分に目を向けすぎて、幸せを感じられなくなるのはもったいない。
結婚も同じではないか。役所に紙をだそうとも、関係にどんな名前をつけようとも、本質は失いたくない。逆に本質さえあるのなら、あとはなんだっていいんじゃないか。もっともこの「本質」というのも人によって変わってくるとは思うのだが。
私達の場合は、一緒にいたいから一緒にいる。そして結果的にそれを「恋人」と呼ぶ。同じように、一緒にいたいから一緒にいて、結果的に結婚するかもしれないし、しないかもしれない。どちらにしても、私達なりの「本質」を大切にしていきたい。

女は我慢?もうそんな時代ではない。
自分が望めば、誰だって幸せになれる。
恋人がいてもいなくても、結婚してもしていなくても、それは幸せ・不幸せとは全く別の話だ。
少なくとも今、私は幸せだ。
今この瞬間、私はとても幸せだ。