中学校からの友だち4人と酒を飲むときに、盛り上がる話題といえばどうしたって恋愛話だった。そうなるとなぜか、ほぼ100%、互いの呼び方に関して聞かれることになる。
「待って、ふら子はいまだに苗字で呼ばれてるの!?」
「その苗字旧姓じゃん、もうふら子の本名じゃないじゃん!」
「結婚2年目でしょ!?」
「うん、まあ、そうだね」

夫は旧姓+さん付けで呼ぶし、私は夫のことを先輩と呼ぶ

夫は旧姓+さん付けで呼ぶし、私は夫のことを先輩と呼ぶ。付き合う前、付き合った後、婚約中、結婚2年目でも、変わらずにお互いのことをそう呼び続けている。その呼び方は、なんだかおかしいらしかった。

たしかに、母の前で先輩の話をすると、母もつられて先輩のことを先輩と呼んでしまい、「私の先輩じゃないのに!んもうっ!!」と怒られる。会社で先輩の話をすると、上司には「変わった夫婦だな……大丈夫か、うまくいってるのか……?」と心配され、後輩には「私そういうの絶対いやです」と言われる。後輩には「これでも結婚したんだぜ……」と酒を注文するしかないし、上司には「なかよしです!」と笑って酒を奢ってもらうしかないし、母には「あきらめて!」と一緒に酒を飲むしかない。もう酒でごまかすことしかできない。

名前はただの記号、ただのラベリングの結果であり、私の本質ではない

なぜその呼び方なのか、と聞かれると、逆になぜ変えなくてはならないのだろう、と思う。その呼び方で、相手がその名前を自分だと認識できていれば、それで構わない気がする。
私にとって、名前はただの記号だ。名前はただのラベリングの結果であり、私の本質ではない。よほどひどい言葉でなければ、なんて呼ばれようと気にしない。その呼び方で他人と区別できるのであれば、どれでもよい。

距離感がある、とか、親密性に欠ける、とかを言われたこともある。それも他人がそう感じるだけで、お互いがそのように感じていなければそれでいいのではないかと思う。私たちにとって、呼び方は距離感や親密性を測る尺度ではないし、呼び方によって変わる関係性でもない。少なくとも、私たちはお互いをどう呼ぼうと、自分たちはなかよしだと思っている。(これは互いにどう呼んでもいいと、思っていないと成り立たないから注意した方がいいかもしれない)

子どもが生まれたらどうするの、親のお互いの呼び方に子どもは混乱するんじゃないか、とも言われたことがある。そのときは、きっと話合いでもするだろう。呼び方を変えることによって、子どものこころが平穏になるのなら、私たちはそうすると思う。呼び方の変更に必要性があるなら、当然行う。いまは互いにとって必要性がないから、変わっていないだけなのだ。

なかよくやっているから大丈夫。それに関係なく、一緒に生きているよ

ちなみに中学校からの友だち4人は、たぶんほんとうに心配をしていて、なぜ名前で呼ばないのかを夫にLINEで問いただしている(なぜ夫のLINEのアカウントを教えることになったのかは全然思い出せない)。そのとき夫は、照れるから、と言ってはいたけれども、友だちが納得いくような理由を言ってみただけなんじゃないかとひそかに思っている。

そういう言葉や行動をうけて、大きなお世話だとか、なんどもしつこいなとかはまったく思っていなくて、なかよくやっているから大丈夫だよ、安心して、という気持ちになる。
私はこれからも、夫のことを先輩と呼ぶだろうし、夫は私のことを旧姓+さん付けで呼ぶのだろう。必要性に応じて、変わっていく可能性もあるだろう。でも、どう呼ぼうが、呼ばれようが、私と夫はそれに関係なく、一緒に生きているよ。