数年前、職場の先輩とこんな話をしたことがある。
「結婚式であの白いウェディングドレス着るのはちょっとやだなあ。職場の人に見られるの恥ずかしいよね」
「分かります。私は髪を伸ばすところからですよ~」
「たしかに!大変!」
今思い返すと、末恐ろしい話だなと思う。
“結婚式は同僚を招待し、ロングヘアと純白の衣装で臨むもの”、“いつかは結婚して、式を挙げるもの”だと、当然のように刷り込まれていた。

「いつかは結婚するもの」。私の中で呪いがはじまった

私は将来どうなっていたいんだろうかと、今の年齢から+10歳までの数字をノートに書き出したことがある。横に、その年齢までに叶えたい夢や目標を書きはじめた。
最初はつらつら書けた。3年後にはこういう仕事をやって、5年後にはここまで任されるようになりたい。イメージがすんなり浮かんだ。
だが、ある程度年齢を重ねるとどうしても“結婚・妊娠・出産”がキャリアに影響してくる。
私は、いくつのときに結婚したいか?いくつで妊娠して育休・産休を取って、子育てをスタートさせるのか?

ペンが止まった。まったく想像つかなかった。
結局、25歳の欄に無理矢理”結婚”の2文字をねじ込んだけど、かえってモヤモヤしてしまった。
友達の結婚式に行けば、たしかに幸せに満ちた世界がそこにはあって、笑顔いっぱいの新郎新婦が羨ましくなった。
しかし、自分にはまだ遠い世界だと、手を伸ばすことはしなかった。それが呪いのはじまりだったのかもしれない。

彼と結婚すれば仕事を辞められる。自分の幸せを蔑ろにしていた罰

過去に一人、結婚の話になった恋人がいる。
付き合って1年が過ぎた頃、転職で遠い土地に引っ越すことになった彼から、「仕事が落ち着いたら一緒に住みたい」と告げられたのだ。
この言葉に、「ついに私も結婚!」と、ひどく舞い上がってしまった。
社会人になって数年経ち、なんとなく環境に飽きていた頃だった。ある程度経験を積んだら、もう少し都会に引っ越したいな。ふんわりとそう望んでいたけど、そんな退職理由だと周りから後ろ指を指されそうで、決心がつかなかった。

だが彼の元へ行くとなれば、誰も文句は言うまい。結婚して都会に引っ越せば、安定した楽しい日々が送れるにちがいない。その思いを胸に、笑顔で彼を送り出した。
当然、遠距離恋愛は簡単じゃなかった。喧嘩が一気に増えたときは別れることも考えたが、「今ここを我慢すれば、仕事を辞められる。うまくやらなくちゃ」と自分に言い聞かせた。
そんな執着心が伝わったのだろう、その後も喧嘩やすれ違いが重なり、遠距離生活は半年ほどで終わった。夢見ていた生活は、あっさりと崩れた。自分の幸せを蔑ろにしていた罰だと思う。
数年後、職場に結婚ラッシュが訪れた。先輩も同期も後輩も皆、立て続けに名字を変えていった。既婚者である他部署の先輩にそのことを話すと、「焦らなくていいんだよ~」と優しく微笑まれた。
焦っていないつもりだったのに、はたから見れば焦ってる人なんだ。
先輩のなにげない優しさに、かえって動揺してしまった。

結婚していたら幸せ?選択肢のひとつに結婚があればいい

あれから、いろんな人の話を見聞きした。再婚を決めた人、パートナーと死別した人、ひとりで生きている人、おめでた婚だった人、子供を授かることが難しい人……。
結婚式は挙げて当然だと思い込んでいた頃や、結婚したくてたまらなかった頃に比べると、視野がぐんと広くなったし、社会的にも、いろんな選択肢があると認識されはじめた。
私の呪いは、徐々に解けていった。

結婚していたら、幸せ?結婚していなかったら、不幸せ?
人によっては正解だし不正解だろう。だけど本当の答えは、そこにないと気付いた。
数年前、ノートに無理矢理「25歳で結婚」と書いてモヤモヤしていたけれど、あの違和感はまちがっていなかったと胸を張って言える。人生や日々の暮らしのなかで、選択肢のひとつに結婚があればいい。
私はいつ、どんなときも、自分の意思で本当にやりたいことを選びたい。思うようにいかなくても、「面白くなってきた!」と笑っていたい。固定概念にとらわれず、もっと人生をカジュアルにしたい。
そう進んでいけることが「幸せ」なんだと思う。そのために必要なら結婚する選択も、結婚しない選択もするだろう。