「じゃあ、お先に」
会話の終わりは、いつもこの一言。
言うのも言われるのも、肩が落ちる。

「かっこいい」と思った彼と初めて話した時、苦手かもと思った

2021年、4月。入社後、初日は研修で数時間、本社にいた。促された席に腰を下ろして、書類を書く。書いた書類を部長が確認している間、ふと私の視線がある人の姿に留まった。
奥のデスクで社員さんと話している彼は何故か、やけに目についた。
皆マスクをしているから、眼鏡をしているぐらいしか特徴といえるものがない。でも数分後、席を外し私の横を通り過ぎた彼を見てやっぱり、かっこいいと思った。
身長は162、3センチ。顔はマスクで隠れているし、ナチュラルにセットされた髪なのか、はたまたとんでもなく眼鏡が似合う人なのか、何がかっこいいと思うのかが分からないからこそ、余計に彼のことが気になった。
部署が違うから、その後彼との接点はない。強いて言えば本社の休憩スペースを使う時、受付に名前の記入が必要なのだけれど、そこで彼の名前を見かけるぐらいだ。

ところが1ヶ月のこと。出勤するなり、研修があるから本社に行くよう言われた。ロープレを担当してくれたのは“あの彼”で嬉しくなってしまったけれど、初めて彼と話した私が抱いた印象は、“苦手かも”。
穏やかだけれど、そこから滲み出る圧力が凄まじい。部署で一番偉い人というのは知っていたけれど、とはいえ彼との会話は緊張MAXだった。

初めて彼と休憩が被った時、まさかの彼が趣味を尋ねてくれて…

それから、ちょうど1ヶ月後のことだったと思う。
よく分からない気持ちを巡らせたまま、彼と初めて休憩が被った。

「おお~、お疲れさま~」と入ってきた彼を見た時から、大好物の卵焼きの味は殆ど感じられなかった。一目惚れかは分からないけれどかっこいいと思った彼が、話してみたら苦手なタイプで、でも未だにちょっとお近付きになりたいような気がする相手。
特に接点がないにも拘わらず、感情の収拾がつかなくなるほど、彼の魅力に圧倒されてしまう。そんな人を目の前にしながら、悠長にお弁当を食べられるほどメンタルが強くない。

「桜さんは趣味とかあるの?」
まさかだった。話を振ってくるとは思ってなくて、一瞬思考が停止する。「本読むのが好きです」とすぐに答えられたことに安堵した次の瞬間、2度目のまさかに驚かされる。
なんと彼も読書が好きらしい。好みのジャンルはミステリー。私が読むのは主にロマンス小説など恋愛系だけれど、本の良さだったりお互いの最近読んだ本の感想を語ったり、思いのほか話が弾んだ。
この時にはもう、迷子だった感情は迷子じゃなくなった。

あともう1回被ってほしい…。休憩が被ると尋ねたオススメの本

この日の最後、彼にオススメの本を訊いた。
ずいぶん時間が経ったような気がして、彼が去った後にスマートフォンを見てみれば、まだ20分しか経っていなかった。

2度目の休憩では、オススメの本を読んだことを伝えた。
「ほんと!? 読んだ!?」
想像以上に喜んでくれたから、私の方が驚いたと思う。「そっかそっか! 嬉しい嬉しい!」なんて、コクコク頷いて笑う姿はあまりにも無邪気で子供っぽくて、上司であることを忘れさせる。彼は、休憩を1時間取らない。30分取るのもたまにだ。
この日も彼にオススメを訊いた。
秋吉理香子先生の“聖母”という作品だった。

9月中旬。休憩が被るのは5回目。この日は彼の他の趣味や学生の頃の話を聴けた。そして、25分間──1番長く話せた日でもある。密かに喜びながらも、気持ちが暗くなる。来月、あともう1回でいいから、被らないだろうか。
仕事モードだと近寄り難いけれど、こんなに楽しく話す人なんだってことを知れた。
話し上手で聞き上手。どんなに小さな一言でも拾ってくれて、どうでもいいような話でも楽しんでくれる。そしていつも、かっこいい。
ほんの少しでも彼と話せると元気が出るし、何より彼の笑顔が大好きで。休憩時間を楽しみに出勤するのも、すごく楽しかった。目を合わせて話していると内心を見透かされそうで、毎回ビクビクしていたけれど。

上司に気持ちを伝えるなんて浅慮だけど、伝えたかったことをここで

10月31日。日曜日、私はいつも出勤だ。
状況確認のため、日曜日の夕方にはたまに彼から電話がくる。今日、電話を取ったのは私だった。落ち着くその声は直接聴きたかったなと、切実に思う。
私がこの会社に来るのは、今日が最後。
12歳も上の、しかも相手は上司だ。同じ会社にいる以上、気持ちを伝える気はなかった。
否、伝えるなんて以ての外だった。私は1月にやっと20歳になる。好きでいるのは自由でも、伝えるのは浅慮だ。願わくば、感想だけは辞める前に伝えたかったけれど。

だから、もしまたどこかで会えたら、“聖母”の感想と一緒にもう1つ言わせてほしい。
貴方のことも、大好きでした。