文字の世界を愛してやまないくせに、本を読むことに興味がわかない
文字で表される世界が好きだ。しかし本を読むのが苦手だ。というか、興味がわきにくい。
文字を書くくせに、文字の世界を愛してやまないくせに、文字になりたいと希うくせにわたしは意外と本を読まない。読書をしないし本を買わないし、だけどなぜかたまに古本屋に行くし何冊か見繕って買ってしまう。
本屋の空気と本を選ぶという行為が好きなので、いわゆる積読をよくするのだ。赤く塗られた木材が組み合わさって、何か所かがまるく切り取られていて、横にくるくる回せるというおもしろいデザインの本棚には、買うだけ買って放置されてしまっている本がばらばらにしまわれている。
本を読まない理由はそんなに大したものではなくて、そして確固たると言えるほどでもない。きっとこれから生きてゆく先の未来で気が向けば表紙をめくりだすのだろうし、その気にならなければそのまま生きるのだろう。なんとなくで任せて動くわたしの人生はそうやってたゆたうように進んでいくのだ。ゆらりと。
文字で現わされる世界が好きだからこそ「本」にはあまり手を出さない
文字で表される世界が好きで、好きだからこそ本にはあまり手を出さないような気がする。世界は自分でつむぐものだから、見えるもの、触れるもの、聞こえるものすべてに関与して生きていきたいと思うわたしだから、メイドイン他人100%のようなそれの中に飛び込もうとするのは、なんだかよくわからない抵抗があるのだ。
自分の世界と他者の世界、世界というそれそのものがぶつかりあってごんと音を立てて姿かたちが変わってしまうような、そういう抵抗が、ある。
うまくひとつになれなくて、変化だけが起きて、元いたところから追い出されてしまって二度と帰れなくなることはとてもおそろしいことだ。
という個人的な恐怖はさておいて、文字が好きなのに本をほぼ読まないそんなわたしは、それを人に言うとよく驚かれる。わたしもわたしでこんな文章を書くのに読書好きでないというのは、確かになんだか意外性に富むよなと納得する。書くタイプの創作がうまい人は同時に読むのもうまいということが往々にしてあるし、そしてわたしはこういう書きものがうまい自覚もあるのだ。
それが、嫌だった。
「本を読まないんですか」と聞かれるほどに私は救われていく
人となりと生活の乖離は大きければ大きいほど面白いというわけでもなく、ぴったりと合致していればいいものもあるし、幾分かの衝撃をのこすほどのスケールでもいいものもある。わたしのこういう性分と非読書家であることは、仲が深まってわたしのつむぐ文章を知った相手ほど驚く気がするのだけれど、わたしはそれが嬉しかったりする。いうなればそれは、よくも悪くも一種のアイデンティティなのだ。
人にどう見られるかを気にするのはよくあることだ。けれどそれを、心の具合を悪くしてしまうほどにああでもないこうでもないと悩みの種にするのは、よくあることで済まさない方がいいことだ。22年間生きてきてようやく得た知見のひとつである。自分だけで決めずに、時には他者や環境に流された方がいいこともある、というのもそうだった。
独りで自分らしさを決めていってしまうと、行き詰まることがほとんどだ。文字の世界が好きならば本好きであるとより道理が通って見えるだとかということは、自分が気にするほどに意外とまわりは気にしていない。まわりの無関心に救われるというのは思った以上にあることで、そういうことに気付かされるたびに、ああ、わたしも誰かと生きているんだなとわかる。
だからわたしは自分が気付かぬうちに、本を読まない自分を責めてしまうことを防ぐためにどんどん人に驚かれたいし、えーっ、読書とかあんまりしないんですかと、笑ってもらいたい。笑ってもらいたいというのは、まあ、人の笑顔が好きなわたしの単なるわがままであるのだけれど。