私が最も長く付き合ってきたSNSは Twitterである。大学入学を機に始めたから、もう10年近い付き合いになるはず。オタクな話から、私生活の愚痴、将来の夢までなんでもツイートにしてきた。
エッセイを書いている今、総ツイート数は25万近くになる。暇さえあればTwitterのアプリを開いてしまうし、暇じゃない時もアプリを開く立派なTwitter廃人である。
10年もTwitterをやっているのは、このSNSが刹那的だから
Twitterを始めた当初から相互フォロワーだった古参の人は、もう両の手で数えられる程の人数。だけど、同じジャンルが好きでフォローしたあの人は、別ジャンルになったけどまだ繋がっている。
フォロワーのフォロワーだったあの人が、ひょんなことから私のフォロワーになっている。大学の同期たちの生存を気軽に確認できるし、高校の後輩なんかもフォロワーにいて、混沌としている。フォロワーは増えたり減ったりを繰り返して、常に新しい交流を生み出している。
私はずっと刹那的に生きてきて、「縁があったら会いましょう」というスタンスでいる。たとえ学校や職場を共にした人でも、縁がなければ積極的に連絡を取ろうとはしない。
そんな私が10年もTwitterをやっているのは、このSNS自体がとても刹那的だからだ。
フォローもリムーブもブロックも、ボタン一つで簡単にできてしまう。それに装いたい自分の数だけ、アカウントを作ることができる。発信も140文字と制限されているから、インスタントにできてしまう。
同期性が高く、衝動的な思いを吐き出すのにうってつけなツイート
スワイプすれば誰かの発信した文字が読めて、同じだけ自分のツイートも流れていく。それは同期性が極めて高く、衝動的な思いを吐き出すのにうってつけだ。
「眠い」「お腹減った」「頭痛い」「仕事やばい」
発信したからといって、どうにもならないものを吐き出せる。受け取った側も、どうにもしようがない。
でも、ふとした瞬間に見ていてくれるフォロワーはいるし、心配したり応援したりしてくれるフォロワーもいる。それが何より心地いい。
見ていてほしい。だけど、見ていてほしくない。
こんな矛盾した一つの他人と、ずっと交流してくれる人たちがいる。なんとも奇特で、得難い人たちだと思う。一生分の幸運をTwitterで発揮しているようだ。
刹那的で衝動的ということは、しかし、それだけ人を傷つけやすいということでもある。
深く考えずに反論したことが、他者の思想を深く傷つけたこともある。深く深く傷つけて、簡単にそれだけ傷つけてしまったことに眠れなくなった日があった。
言葉で身を立てようとするものが、言葉を大切にせずして成功できるはずがない。
「言葉を大切にすべき京さんに、そんなことを言われたくなかった」というツイートを見た瞬間、心から恥じ入った。
死んだらアカウントで告知して欲しいほどTwitterは好きな場所
こちらが軽い気持ちで発信したことが、あちらに同じ軽さで着地するとは限らない。そんな当たり前のことを、つい忘れてしまうのだ。
大切で、信頼していた人を傷つけてしまった時の、胃の腑が冷える感覚というものを、私は他に知らない。
普段は実のないツイートばかりして、時には人を傷つけたり、傷つけられたりする。そんな私をフォローしてくれるフォロワーたちに、新旧の別なく感謝している。
きっとこれからも、大半は実のないツイートを垂れ流し、時には重大な発表をし、やっぱりオタクな話を延々と続ける。
それは私の私らしい姿だ。
もし、私が死んだとしたら、身内の誰かが「小木京は死にました」と私のアカウントで告知してほしい。そう思ってしまうほど、Twitterは好きな場所になってしまった。
だから、フォロワー達にはこれから先も、折に触れてリプライをしていくと思う。
「こんなアカウントをフォローしてくれてありがとう」と。