「あーもう全部ぐちゃぐちゃだ」
私の初ツイートがこれ。重い!(笑)。
高校2年生ぐらいだったかな。私の過ちが友達にバレて孤立した時期だった。

罪悪感と不安がごちゃ混ぜになったあの孤独感は、誰かに話を聞いてもらっても簡単に消えてくれない。頑張れそうと思っても、数時間後にはまた心が乱れている。
話を聞いてもらうということはドラッグのようなものだ。効果絶大だけど切れたらやばい。授業中効果が切れてしまい気がついたら涙が出ていた。
“今”誰かに聞いてほしい。“今”じゃないともうダメなのだ。
でも、学校に友達がいない。そんな時にTwitterに吐き出した言葉がこれだった。

自分の暴れ出しそうな感情を世に放った。まだ私の周りではTwitterよりもDecooリアルが主流で、知り合いは誰も見てなかったんじゃないかな。
もちろん誰かからリプライが来るわけでもない。なんだけど、誰かが見てくれてるような感覚になってすごく落ち着いた。
あの頃の自分は苦しいと言う資格すらなくて、だけど苦しかった。こっそり吐き出せて本当に助かった。あのときのこと、やっぱり今でも覚えてる。

“誰かが見てくれてる”ではなく“誰かに見られてる”意識の方が強い

それから10年経って、Twitterの在り方は変わり、コンセプトに沿った投稿をするアカウントが増えた。私はその人たちのツイートを、RTして拡散したり、いいねして共感したり。
いつからか“バズる”という言葉が生まれて、多くの人があらゆる数字に左右されるようになった。
それはいいね、RT、フォロワーの数で「誰が正論なのか」が決まるかのよう。それ故の分断も生まれて、TLはなんだか殺伐としている。

あまりに誰もがTwitterをやっている。私は“誰かが見てくれてる”んじゃなくて、“誰かに見られてる”意識の方が強くなった。「〇〇に見られてそうだからこのツイートやめよう」とか「じゃあこれツイートしよう」とか思ったりして。
気がついたら私は炎上にのっかって、持論をぶつけるようになっていた。特に過去の過ちと重なるような問題に関してはうるさくツイートした。あの経験から言えることがある、とでも思ったのかもしれない。私の言葉ができるだけ遠くへ飛んでいってくれることを願った。誰かが反応してくれるほどに、この持論は正しいのだと肯定されたようで、あのときの過ちが許されたような気分になったのだ。

ある日、また誰かが燃えていた。TLに流れるいろんな意見を汲み取り、いつものようにツイートしようとして、勢いよく文章を作っていたら、ふと思った。
「あれ、これって何のためにやってるんだっけ?」

整理整頓された正論らしき文章は本当に私の言葉なのだろうか

文章はほとんど出来上がっていた。あとは言葉を整理してツイートしてしまえば、きっと私はスッキリするだろう。一方で遠くにいる見えない誰かが傷を負うことになるだろう(ツイート自体が届かなくたって、一人一人の“これ”こそがダメージを与えているのだと思う)。
そもそも整理整頓された正論らしき文章は本当に私の言葉なのだろうか。私ってこんな正しい人間だったっけ。
スマホの画面をそっと閉じた。

それ以降、私はTwitterと距離を取っている。
私にとっての本当の言葉とはなんだろう。とはいえ、日常系ツイートで誰からも反応がなかったらそれはそれで「え、なんか恥ずかし……!」とか思ってしまうわけですよ。やっぱり見られてる意識があるせいでスベった気分が否めないといいますか。もうちょっとウケそうなことをツイートしようかなとか思っちゃったり。
結局今でも私は数字に惑わされている。

大学時代は挨拶代わりにアカウントを教えあったりしてワイワイやっていた。旅行の写真を載せてる子も多かったな。
けど気がついたら学生時代の友達はこぞってツイートしていない。友達のアカウントを覗いてみたら、2018年あたりから投稿が止まってるじゃんか!華やかな日常と喜怒哀楽が詰まったあのツイートたちはどこへ行ったのだろう。
炎上にのせられて綺麗な言葉ばかり並べたがる私は、みんなとは違う世界で生きてるように思えた。

Twitterがかつての姿ではない今、私が見つけた新しい居場所

かつてのTwitterに思いを馳せる。やっぱりあの頃のTwitterには、面と向かって言えないけど誰かに言いたい本音が散らばっていた。同世代の子たちの日常がそこにはあって、あれに私は救われていたのだと思う。
そして私自身、今よりも10年前の方がよっぽど本当のことをTwitterに吐き出していたし、遠くにいる誰かとも密接に繋がっていたと思う。そこにはいやらしさなんてなかった。

そんなことを思っていた頃、私はInstagramをよく見ていた。たしか自粛期間で一人暮らしの部屋に閉じこもっていた時期だと思う。社会の状況と殺伐としたTLに苦しくなって、息抜きのようにストーリーズを見ていたのだ。
そこには、大学時代に活発にツイートしていた子たちがいて、それぞれが思い思いの感情をぶつけていた。コロナ禍がしんどい子もいれば、彼氏と楽しく生活してる子、逆にすれ違って上手くいっていない子、自分の部屋で新しい趣味を見つけてる子もいる。
この感覚がすごく懐かしかった。ここに私の居場所があるかもしれない。Twitterがかつての姿ではなくなった今だからこそ、確かな何かを感じた。

SNSとの距離感は、時代によっても、その種類によっても全然違う

ストーリーズは拡散力が弱くて、いいねの数もわからない。それに加えて誰かが見ている足跡はしっかりつくから、“フォローされてないけど見てそうなあの人”に見られる可能性もほとんどない。誰かに見られているというよりも、誰かが見てくれているような感覚に近い機能だった。
何で気づかなかったんだろう。ここだったら見栄を張る必要もない。ちゃんと私の言葉で本当のことが言えるような気がした。

SNSとの距離感というのは、時代によっても、その種類によっても全然違う。Instagramもいつか今みたいな距離感ではできなくなってしまうかもしれない。でもそのときはまた、誰かと密接に繋がれる新しい居場所ができているはず。
どんな形になったとしても、SNSは小さくて切実な生活の声を拾ってくれるものであると信じていたい。場所が移り変わっていくだけで、SNSから私たちの居場所がなくなることなんてないのだ。