前に付き合っていた人に最後、綺麗な生活を保ちたいからあなたには会えない、と言われた。
聞いて、わたしといた日々は汚かったってことか、と思った。大切にしていた、大切にしていきたかったその人との時間や思い出が、埃まみれであったかのように感じた。
その時は悲しかったような気もするのだけど、いま思えばその通りのような気がする。わたしはお世辞にも生活が得意な方とは言えない。飲んで帰ってくればそのまま寝てしまい、翌日の朝シャワーを浴びることもある。
ご名答!と周りを舞えば少しは笑いになっただろうか。

丁寧な生活はたしかにできるけど、わたしの場合多分1ヶ月続かない

朝日を浴びて起き、パンケーキを焼いて、柔軟体操をし、湯舟を張る。一日何キロか走って汗を流し、お酒は適量、アースカラーの家具に囲まれる。
そういう生活はたしかにできる。できるけれどきっとわたしの場合1ヶ月続かない。続くとしたらせいぜい花を活けるくらいだけれど(花をいい匂いだと思う心は持っている)、それも捨てるタイミングがわからず、四六時中部屋に変な匂いが充満することになるだろう。
インターネット上に無数にあるお洒落ルームは撮影用で、返し忘れた図書館の本やいるかいらないかわからない行政からのお便りが机の上に放置されている別宅が存在しているのだろうと信じている。

だいたい家の中にあるものの色が統一されているなんて、わたしにはちょっと考えられない。その人は東南アジアに行った友達にもらった置物をどうしてしまったのだろう。日本にはない配色の猫か虎かなにかをモチーフにしたモアイみたいなやつを、黒塗りで頭の上に桶を乗せて首をかしげているほっそい人形を。

いらないのだから捨てるべきだ。そんなことはわかっている

わたしが生活をやっぱり汚いものだと思うのは、丁寧な生活をする体力が残っていないからというのが大きな理由になっている。そしてこんなことを書いているのは、丁寧な生活に憧れがあるからだ。
家を、生活を、自分自身を綺麗に保つことは、きっといろんなことを忘れさせる。握れなかった手、言えなかった言葉。わたしは、そういうどうしようもないものさえも捨てられずに取っておいてしまっている。
いらないのだから捨てるべきだ。そんなことはわかっている。でもそれらを捨てて家を、生活を、自分自身を綺麗に削ぎ落してしまうことは、見栄になるのではないかとも思う。続かない見栄をがんばって張り続けることに、わたしは価値を感じてあげられるだろうか。

朝、時間がなくてこぼしたふりかけをそのままにして家を出たこと、帰ってきた頃にはすっかり忘れていたこと。夜通し泣いて飲んで声が枯れたこと、その声をいつもと違ってかっこいいと思ったこと。電子レンジを開けたらいつのかわからない竹輪揚げが入っていたこと、それをまだ食べられると思ったこと。干し忘れた洗濯物に気づいてあちゃーと手を額に当て、もう一度洗濯機を回したこと。そのどれも、消してしまいたいほど嫌いだとは思えない。

こんなことを言っているから、わたしの部屋は片付かない。