クリスマスをともに過ごすほど、仲のいい人がいたわけでもなく。クリスマスをともに過ごすほど、心を許した人がいたわけでもない。
人との心の壁が分厚い私にとってクリスマスとは、花より団子ならぬクリスマスツリーより食事と言ってもいいほどには、いつもより豪華な食事が食べれる日という感覚でしかない。
もっと言えば、私が大好きな生ハムを買ってもらえる数少ない記念日でしかなかった(生ハムを料理に使うようなオシャレな家ではないので、誕生日とクリスマス位しか買ってもらえないのである)。
友達とのプレゼント交換。家族以外でクリスマスの思い出ができた
人を好きになるという感覚が未だにわからない、お子様な私にとって、クリスマスはそうで有り続けるのだろうと思っていた。そんな私にも少しの思い出になり得ることが起こった。
残念ながら、恋愛話ではない。相も変わらず、私の人生に恋愛の文字はないし、今の所書き込まれる見込みもない。
そして、どう転んでも良い思い出にはなり得ないのである。私のクリスマスという思い出のツリーにぶら下げられた真新しいオーナメントは。
このエッセイを書いているつい先日、友達4人とカラオケに行った。
まだまだ、クリスマスの空気にもなっていない世の中ではあるが、せっかく集まれるのだからプレゼント交換をしよう!ということになり、クリスマスプレゼントという名のプレゼントを交換したのだ。
私にとっては、人生2度目のプレゼント交換であり、クリスマスの思い出というには十分な出来事であった。それぐらい、私は家族以外のクリスマスの思い出がないのだ。
友達は嫌いではない。でも温度差を感じて、一緒にいるのがしんどい
そもそもそのグループは、日本でコロナの感染者が出る前にカラオケに行こう!と結成されたグループであり、コロナのせいで1年以上の時を経て当初の目的を達成したのである。
そして、コロナという強制的な暇の期間があったからこそ、ゲームという媒体を使って仲良くなった少し変わったグループであった。きっと、コロナがなければそれまでの関係だったと思っている。
ここまでだと、良い思い出にしかならなさそうであるが、1度目のクリスマスプレゼントがそこまで思い出に残っておらず、2回目の今回が残りそうだなと思えるのは別の理由がある。
それは、ずばり他の3人と私との温度差が開き、一緒にいるのがしんどくなってきているからである。彼女らのことが嫌いなわけではない、そうではないのだ。ただ、一緒にいるのがしんどいのである。
だから、嫌いになる前に一回距離を離そうかと思っている。それを思ったのが、秋。最終決断もふくめて、実行する予定なのが2月上旬。
町がクリスマスに染まるなか、友達との関係に悩む日々
つまりクリスマスを含む、この冬はしんどい気持ちを悟られないようにしながら悩む以外の道は残っていないのである。残酷ではあるが、嬉しいことよりもつらいことのほうが記憶には深く強く残るのである。
わたしにとって、「またね」も「また機会があれば」も等しく「さようなら」と同じだと思っている。繋ぎ止める程他人に執着できない私にとって離れるのは、縁切りと類義語なのだ。
この先、いまより希薄になってはいてもその交流が続いている未来であっても、今までの友達と同じく過去の友人に成り下がっている未来であっても、この少し早いクリスマスプレゼントは、この葛藤を象徴する物として手元に残り続けるのだ。
そんな事を思いながら、このエッセイを書いている期間も町はクリスマス色に染まっていく。一刻も早く2月が来て欲しいと願いながら、少しでも長く彼女らといたいという矛盾を抱えて私は今日も過ごしていくのだ。