脱毛がありふれた日常。私の体毛は「猿だった」と言わんばかりに濃い
電車に乗れば目に入ってくる、四季折々の売り文句が書いてある脱毛サロンの広告。YouTubeを見る前に入ってくる、地味に続きが気になって、でも少し腹が立つような、そんな広告。「脱毛」という言葉が、日常に付きまとっていると感じる。
そんな私の体毛は「前世はやっぱり猿だったのだ」と言わんばかりに、濃い。
背中の毛は、昔パートナーに脱毛を遠回しにオススメされたくらいだ。
そんな体毛を、根こそぎ追いやってピカピカつるんが理想とされる、現実。
いきなりだが小学生の頃に時を戻す。多分私が少し自分の容姿を気にしだし、毛を剃ったりする友達が近くにいたのだろう。
ぼそっと私は「毛深いから、剃ろうかな……」と、なぜか祖父に打ち明けた。
すると、「毛深い人ほど、優しい人なんだよ」と。
「まじでアズサナノって、変な壺を高値で買いそうだよね」
とよく言われる私は、祖父の有難い教えを丸ごと愛して、毛を剃ることはしなかった。
何か分からないけど、自分の優しさが削がれてしまうのでは?と思っていたのだろう。
ツルツルで綺麗な友達の腕との差に気づき、初めて剃刀を手に取った
そんなこんなで時は経ち、私は高校生に。
女子高に通っていた為、あまり容姿を気にすることはなく、スカートの中には当たり前にスポーツスパッツを仕込んで、髪はほぼ坊主にしていた。
でも、体毛だけは違った。
半袖で部活のストレッチを二人一組で行っている際、どうしてもチームメイトと自分の腕の体毛の差が気になったのだ。
ツルツルで綺麗な友達の腕と、すくすくとお育ちになられた森のような私の腕。
それに気づいてしまった瞬間、「この毛には私の優しさと人情が詰まっているから、剃らないのだ!」という意地は負け、「皆みたいにツルツルぴかぴかな腕になるんだい!」という感情が勝利した。
こうして初めて、私は剃刀を手に取ったのだ。
「ああ、私の優しさが、排水溝に流れていく……」なんて思いながら、大学3年生の秋までは。
すべすべのお肌も悪くはない。けど、毎度毎度ハリネズミのようにチクチクしながら、何故私の全身に誕生してくるのだ、と恨みながら。
3日に1度は格闘する呪いを解いてくれたのは、留学中に出会った友達
だって、友達は「毛深いのはやばいよ〜」って言うし。
だって、パートナーは「チクチクするなあ」って言うし。
だって、広告で毛を生やしていると「あり得ない」って言われるし。
私の身体をどうしようと誰にも関係ないのに、「だって」の呪いと3日に1度くらいは格闘し続けた。
そんな私の呪いを解いてくれたきっかけは、留学中に出会った友達。
何故体毛の話題になったのかは忘れたが、その子は剃ったりしていなかった。
「どうして?」と聞くと、「別に良くない?」と一言。
うん、確かに。
他の友達に日本の電車には脱毛サロンの広告が沢山あると話すと、
「なんで?私の国はあまり見ないけどな」
と一言。
ほうほう。
あれ、私なんでこんなに気にしてたんだろう、と。
勿論、体毛の色や毛深さは関係しているかもしれないけど、そうだよね、別にそこまで悩むことないよねって。
ありのままで生きるのはかっこいい。毛深くたっていいじゃないか
同時に、ありのままの自分で生きている友人がかっこよくて仕方なかった。
毛深いままノースリーブを着たって、足がロールケーキでもスパッツを履いたって、絶対に似合わないけどピンクの服を身にまとったって。いいじゃないか。
それで、私は留学していた6ヵ月、腕にペットを飼ってみたのだ。
ここでいうペットは体毛。育てていると解釈すると、なんだか愛おしくなってきた。
何となく自分の優しさが増した気もした。
特に誰に何も嫌な言葉を浴びされずに、フサフサになった両腕は綺麗にさえも思えたりした。帰国時にはワックスでハート型に抜いてみたのもいい思い出だ。
日本に帰ると、待ってましたと言わんばかりに可愛い女の子がキャンペーン実施中でお出迎え。でも、私はもう周りの言葉には左右されなかった。
剃りたくなかったら、それでいいのだ。
剃りたくなったら、それもいいのだ。
体毛に限った、女性に限った話じゃない。
髪の毛は短くても長くても、それでいい。
笑い方はホトトギスでも鶏でも、それでいい。
体型も自分が愛せることが出来れば、それでいい。
私が私を好きでいられる。そうやって、これからも生きていくのだ。