人間の体に生える“毛”は、その部位によって、髪の毛、眉毛、鼻毛、脇毛、胸毛…など様々な呼び方がある。
「ツヤのある長い髪は女の命なのよ」と、幼稚園児の私に祖母が言った。
「鼻毛出てる!」と、小学校の同級生に笑われた。
「これで脇の毛剃ってね。女の人のマナーだから」と、中学生になり、母に剃刀を渡された。
「アイツ、女なのにスネ毛生えてるんだぜ」と、高校の同級生がそんな話をしているのを聞いてしまった。
「ねぇ、一緒に脱毛サロン通わない?友達紹介で行くと安いんだよ!」と、大学でできた友人に誘われて、脱毛サロンの体験に行った。ちなみに初回は500円、コース契約は25万円と聞き断念してしまった…。
現代を生きる女性にとって、“毛”に関する悩みは付き物である。というより、毛に対する周囲からの評価に、過剰に怯えているようにすら感じる。
「毛」は都合よく生えないし、無茶苦茶な注文を受け付けてはくれない
小学校高学年になったある日のこと、私の脇に太い毛が数本生えかけていることに気づいた。
通っていた習い事のバレエ教室では、水着のようなレオタードを着てレッスンを受けるのだが、幼稚園児から大人まで幅広い年齢の生徒全員が脇はもちろん、腕や背中、うなじまでまるで人形のように均一で毛が生えていない。
帰宅して母に脇に生えた毛を見せると、前述の通り剃刀を買い与えられ、毛の剃り方を教えられた。そのとき、はじめて私は「毛は剃らなくてはならないものである」「毛の処理をしていないことは女性として恥ずかしいことである」と理解した。
周囲の声をまとめると、髪の毛は長く指通りが良く、ツヤがあるのが女性らしく魅力的である。一方で体に生える毛は「ムダ毛」と呼び、剃る又は抜かずに放置していると、マナー違反とされ「女子として終わっている」などと言われてしまう。
髪の毛だけ濃くて量は多く、眉毛や鼻毛は少な目に、それ以外は生えないでくれ! なんて、無茶苦茶な注文を毛根は受け付けてくれない。
私は文句を言いながらも、少なくとも週に一回「毛」を剃っている
美容院では“毛”を美しく見せるためにお金を払い、脱毛サロンでは“毛”を無くすためにお金を払う。同じ“毛”なのに、生える場所で悪者にされてしまうなんて、毛根が不憫である…。
私自身、「めんどくさいなぁ…肌荒れるなぁ…」と文句を言いながら、社会に馴染むため少なくとも週に一回は、入浴時に10分程掛けて毛を剃っている。
2017年、某有名スポーツメーカーが新作スニーカーのモデルとして起用した女性が、脚全体の毛を未処理のままで、賛否両論が巻き起こったニュースをご存知だろうか。
2020年にもカミソリ等を販売する老舗の株式会社が、「#剃るに自由を」をテーマに未処理の脇やそばかすや痣のあるCGモデルの広告を発表している。
個人が毛の処理をせずに過ごしていても「女子力の低い奴」のレッテルを貼られて終わってしまうが、著名人や企業による発信の影響力はとても大きく、社会が“毛”の自由について、今一度考えるきっかけになるのではないだろうか。
これからは毛を剃るのも自由、自然のまま生やすのも自由でいいと思う
私はこれからの時代に、毛の処理の自由を望んでいる。これは剃毛を批判するものではない。
剃るのも自由、自然のまま生やすのも自由。髪の毛のように染めたり、三つ編みにしたりするのも面白いだろう。ハート型に整えて、ピンクに染めた脇の毛もユニークで素敵だろう。
これは女性に限らず、男性も同じである。全身の毛を処理してツルツルにするのも、伸ばした髭を7色に染めて編み込むのも自由。毛は、私の体の一部である。
周囲からの毛への偏見に抑圧されることなく、自分の体に生える毛の処遇は、自分自身の納得するように決める。
毛の自由、万歳!