死にたいなんてカジュアルです。わりともう生活の中に溶け込んでしまって本気で思うとか思わないとかじゃなくて、学校から帰ってきて「疲れた」と同じぐらいに「死にてぇ」と思うわけです。
良いのか、悪いのか僕には判別つきませんがそんなもんだろと、死にたいと思うことに若干の罪悪感はありつつも、諦めきった投げやりな気持ちの方が大きい日々です。
でも、そう思ってしまっていいのだろうか。死にたいと思うことはダメなことなんじゃないか、健全ではないのではないかとも考えこんでしまいます。

死んだ魚の目をした主人公の彼はどう思うだろうか

じゃあ、果たして八幡はどう思うのだろうか。
「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」(渡航著)の主人公である比企谷八幡は、ひねくれた考え方をしている死んだ魚の目をした男子高校生です。
僕は彼の思考が大好きです。彼はひねくれた性格故にトラブルを考えうる一番曲がった対処法を選択します。
彼の所属する奉仕部という部活は、生徒からの悩みや相談を引き受ける部活です。ある時、文化祭の実行委員長である女子高生が舞台上の挨拶を逃げ出してしまう事件が起きました。八幡は逃げ出した女子高生を何とか見つけ出し説得を試しますが、中々聴き入れてもらえません。そこで八幡が取った方法は「最低なやつだ」と“罵倒する”ことでした。
「あぁ、最高だなこの人は」と僕はそう思いました。

もちろん、そこで女子高生が言って欲しい言葉は「大丈夫だよ。君は悪くない」という優しい慰めだったのでしょう。それは承知の上でわざと八幡は悪者になることを選んだのです。周りのヘイトを一手に引き受け、遅れて来た人気者の同級生が女子高生をかばい八幡にキレることで女子高生を慰め、挨拶に間に合わせることに成功します。
同級生には「君はそんなやり方しかできないのか」と言われるのですが僕にはそんなやり方しかできない八幡が愛おしくて、不器用で思わず笑ってしまいました。それに間違った方法だったとしても何がいけないのか分かりません。
確かに、最善ではないんでしょう。優しく慰めることが最善だったのかもしれませんが、僕にはそれが正しいとも思えません。「君は悪くないよ」なんて嘘なんだし、むしろ僕は見放してもいいのではないかとすら思ってしまいます。
なので八幡がそうやって罵倒してくれたことに僕はスッキリし、同時にある種の勇者のように感じました。僕には絶対に言えない言葉だ。

こんなひねくれた考えを持っていても良いと思わせてくれた

この本は僕を死にたいから救ってくれた本なんかじゃなく、また励まされたとか綺麗な感情でもなく、こんな考え方でも良いんだって、こんな嫌なひねくれた考えを“持ってても良いんだ”と思わせてくれた本です。

“青春とは嘘であり悪である”
そんな一文から始まる青春ラブコメは、一筋縄ではいかない面倒くさいキャラクターがまた大量に出てきて、もっと簡単なことなのにと思うことにもひねくれた目線で物事を考えてしまう八幡らに共感し、また呆れ、僕の気持ちを軽くしてくれます。八幡のぼっち最強論は僕の核となって僕の学生生活を支えてくれました。

綺麗じゃなくてもいいんだよって、僕は勝手に言ってもらいたかったのかもしれません。今の時代は考えまで制限させられてるような気がするから。
綺麗な整えられた優しい考え方を強要されているような感覚に僕は勝手になっていて、こんな汚い考え方は持ってはいけないんだと僕自身を綺麗になるように削ろうとしていたから。
無理に良い人間にならなくてもいいのかなと思えたのは、僕にとってとても大きいことでした。

「健全でいられるわけがない」と思えば、体の緊張が抜ける

今でも死にたい、消えたいと思う時に若干の罪悪感と諦めを感じます。でも、一つ開き直った部分もあって「健全でいれるわけがないだろ、人間なんて全員不健全なんだし、健全だったらsexなんてしないだろ」ともふてぶてしく思います。そう思うと少しだけ体の緊張が抜けるんです。

クズはクズなりに生きれるし、人を見下すことだって人としての通過儀礼なんだから自分をそこまで嫌わなくてもいいんじゃないかって。
僕は多分ここでも書けないような、話したら非難轟々だろう考えを持っています。一生懸命働いてる家族には言えないけど、でも同じような感覚や考えを持っているやつらはいるんだろうなと、僕はこの本を読んで勝手に同志を得た気持ちになってそう思えます。思えるだけでいいんです。
同じ八幡のように学生時代の黒歴史がいっぱいあって、今もなおイタくて、ガラスのハートだけど矜持は持ってたりして、ぼっちで、パッとしなくて、地味で、繊細で、ひねくれてて、最高に面倒くさい人がいると考えるだけで最高です。