「話を聞いて」「助けて」
それだけでよかったんだ。でも、その言葉を伝えることができなかった。

私は、高校生の頃、理不尽なことがあると、上下関係なくはっきり「間違っている」と言うタイプの人間だった。多数派にのまれず、自分の思う正義を貫いてきた。そのため、周りから奇異な目で見られ、孤立することもあった。
ある時、友人を守ろうと思った行動が勘違いを生み、孤立してしまうことがあった。誤解が私の知らない場所で広がり、私は一般的に言ういじめにあうようになった。

後ろから体育館シューズを投げられたり、大声で名前を呼んでからかわれたりした。無視されたり避けられたり、悪口を言われたりもした。
でも、私にとっては「周りが幼いだけ。私は正しい」と言い聞かせて生活した。心のどこかで違和感はあった。でも、平気だと思うようにした。私のことだから、周りに頼らずやっていこうとした。
嫌がらせは続いたが当たり前になったら、案外生活できた。コソコソ悪口を言われることも、私から人が離れていくことも、それが普通と思えば平気な気がした。

平気でなくなった私は人前でご飯を食べられなくなっていた

しかし、日が経つにつれ、平気だと思っていたのは表面だけだったことに気付いた。授業中は授業に集中していたので周りは気にならなかった。しかし、昼休みは違った。
周りがざわつく。冷たい視線を感じる。悪口を言われているんじゃないか。怖い。誰からも見られたくない。誰も見たくない。
そして昼休み、私は弁当を持って廊下へ出た。
ひんやりした空気。教室ほどではないが廊下にも人がいる。人がいること自体が怖くなっていた。
どこなら1人になれる?空き教室も使われている。
そして辿り着いたのが、トイレだった。
便座に座り、膝の上で弁当包みを開けた。やっと1人になれた。安堵した。
安心してご飯を食べることができた。これが1番!
そして私は高校を卒業するまでトイレで弁当を食べた。

トイレで弁当を食べることが当たり前になってしまった。
一度癖がついてしまうとなかなか元には戻らない。
そのことに気付かされたのは大学生の時だった。
高校の頃の知り合いなんて、2、3人いるだけだった。でも、いつの間にか人自体が怖くなっていた。また悪く言われるんじゃないか、からかわれるんじゃないか。
広いキャンパス、誰も私に注目しているはずなんてないのに、昼休みになると、私はカバンを持って自然とトイレへ向かった。弁当を食べるために。
それが私の自然になっていた。人が来ない寒いトイレで弁当を食べることが私の安心になっていた。

声をあげたら救いの手が。自分の選択肢を変えたら明るい未来が

大学で1年間、トイレで弁当を食べる期間が続いた。部活やゼミで活動するようになり、少しずつ友人ができ、ようやく部室や空き教室で弁当を食べることができるようになった。
そして大学の友人に、高校の頃の話をし、人が怖くなってしまったと、悩みを打ち明けた。
そうしたら、友人は私の話を聞いて、泣いてくれた。私が泣かない代わりに。いっぱい泣いてくれた。心が軽くなった。
そうか。もっと早く頼れば良かったんだ。自分だけで抱えることはなかったんだ。
こんなに私のことを思ってくれる人いるのに。私は頼ることを勝手に諦めてしまっていたんだ。

もっと早く気づけばよかった。
これから先、ちゃんと「助けて」が言える人間になろう。誰かに頼って生きよう。
人は一人では生きられない。今は私を大切に思ってくれる友人や家族がいる。いや、友人や家族でなくても、素敵な人は世の中にたくさんいる。困ったら手を差し伸べてくれる人がいる。
私は信じなさすぎてしまった。私のことだからと、自分の辛い気持ちを押し殺して耐えることを選択してしまった。
周りは優しさに溢れているのに。
だから私は困ったら言うんだ。
「助けてほしい」「話を聞いてほしい」と。
そして辛い思いを抱えている人はどんどん発信してほしいと思う。
「助けてほしい」と。
きっとその言葉が届く相手がいるはずだから。諦めないで。少なくても、私は手を差し伸べられる一人でありたいと思っているから。