「お父さんの作る玉子焼きが、世界で1番美味しい」
当時から照れくさくて言えずにいる、私なりの精一杯の感謝と褒め言葉。

母が隣の県の学校へ通うこととなり、父は姉妹のお弁当を作ることに

私が中学3年生のとき、母が突然「助産師になりたい!」と言い出した。もともと看護師として働いていた母が、次に抱いた夢だった。
一度夢や目標ができたら最後までやり遂げる母は、私が高校1年生になると同時に、隣の県の助産師学校へ通うことが決まった。

実家から通うには無理があったため、母だけ単身で隣の県に引っ越すことになった。
母の卒業までは父1人で、私を含めた姉妹3人の面倒を見ていくことになった。今までは母と分担して家事をしてくれてはいたが、料理だけはめっきりダメだった父。これから1年間、全面的に料理まで任されるようになったのは大変そうだった。

特に苦労したのは、きっとお弁当作りだろう。
高校に入学した私と双子の姉は、毎日お弁当が必要だった。私と姉は学校が始まる前から「購買部で適当に買うから、別に作らなくてもいいよ」と、父を気遣って言っていた。料理に慣れない父が早い時間に起きてお弁当を作り、それから仕事に行くなんていう無理はしてほしくはなかった。

お弁当の中には朝見た形を崩したままの卵焼き。とても心に染みた

授業開始の日。
朝6時に目が覚めて1階へ降りると、台所には父の姿があった。台所に立つ父は、慣れないながらもフライパンに油を割いたり、お弁当箱におかずを詰めてくれていたのだ。
父は料理に追われて余裕がなさそうにあたふたとしていた。火加減が強すぎたのか、玉子焼きが焦げないよう急いで皿に移している。皿を見ると、形を崩したままの玉子焼きが完成していた。

学校、お昼休み時間。
「これ、お父さんが作ってくれたんだ」
私は、父の作ったお弁当を友達に少し自慢しながら食べた。白ご飯には丁寧にふりかけをかけてくれていたり、いんげん炒めや唐揚げも入れてくれていた。
もちろん、あの玉子焼きも入っている。
朝から形を崩したままの、少し醤油と砂糖を入れすぎた玉子焼きが、何故だかとても心に染みた。

料理が得意ではないはずなのに、お弁当作りだけでなく、私たちが毎日飽きないようにおかずやお弁当のバリエーションも増やそうと努力もしてくれた。
一度、そぼろご飯の挽肉を焦がして、朝から頭を抱えているのを見たときは、こちらが申し訳なくなった。

1年間で父はふっくらしていて、程よい甘さの卵焼きを作れるように

そんな努力と失敗を積み重ねてきた父が、あの1年でとても上手に作れるようになったのが玉子焼きだ。

初めは火加減すらままならなかったが、次第に綺麗な形を作れるようになり、ふっくらとした厚みと程よい甘さの玉子焼きへと進化していった。
自分たちで作った玉子焼きも、祖母がときどき朝早くから来て作ってくれた玉子焼きも敵わない。

父が慣れないながらも試行錯誤してきた1年間が、あの玉子焼きには込められているから。

それなのに、私はちゃんとお礼が言えなかった。
反抗期で毎日喧嘩ばかりしていた父に、改めてお礼を言うほど素直には慣れなかった。照れくさいし、当時はそんな気持ちだったと思う。

照れくさくて言えなかったお礼を言って、また父の卵焼きが食べたい

東京に上京して早4年目。一人暮らしや自炊を経験しながら感じるのは、あのときお弁当を作ってもらっていたことに対する感謝である。
朝早くから起き、私たち姉妹2人分のお弁当を作って仕事に出かける。

大学に通いながらでも、毎日お弁当を作るのは大変だと気づいた。初めのうちは頑張れたが、今ではほとんど買い弁に頼ってしまう。
あの1年間。父は本当に偉大で、感謝すべきことをやってのけたんだと、今更思い知らされた。

そんなことを考えながら無性に恋しくなるのは、父の玉子焼き。このコロナ禍でなかなか帰省が叶わず、高校生以来食べれていない。
実家に帰れたら、父に頼んでまた作ってもらおうかな。あの頃は照れくさくて言えなかったけど、ちゃんとお礼も言おう。
成人して少しは素直になった私は、一刻も早くコロナが落ち着くことを願っている。