「私に勉強を教えてくれた先生は、ドライヤーなんかしない」
ドライヤーをしながら、こう思ったことがあった。

私は18歳のどこにでもいる大学生であり、人並みにバイトもしている。高校生のときにある友達に勉強を教えることが多々あり、その子からの評判が良かったため、勝手に自分は教えるのが得意だと思い込んで安易に塾の講師をバイトとして選んだ。

半年以上働いてバイトの要領を掴み、業務で困ることはほとんどない。ただ、1ヶ月ほど前から心の奥から滲み出るような疲労感を感じることが多くなった。
日常生活で何かをするたび、「私に勉強を教えてくれた先生は、こんなことしない」と思うからだ。

身の回りの人間について想像し、理想化する。「大人」も例外ではない

私は理想家である。そう気がついたのは、私の恋愛がうまくいかない理由を考えていたときである。
幼い頃からファンタジーや空想が大好きだった。空想は妄想と呼ばれ、馬鹿にされるような年齢になっても、私は自分の性質に気が付かなかった。現実の恋愛にもそんなものを期待していたために、私は勝手に失望し、相手を傷つけてしまった。
そして私が人を理想化してしまうのは恋愛だけではなく、私は身の回りのさまざまな人間について勝手に想像し、理想化した。「大人」という存在も例外ではない。

「大人」という形を長らく代弁していたのは学校や塾の先生だった。彼らは完璧だった。
先生が見せていたのは勉強を教える姿、生徒を正しく導く姿、失敗しない姿であり、私の理想を全く裏切らなかった。私はずっとこの世界には「大人」という種類の人間がいて、そのような種類の人間は皆立派なのだと思った。成人になるときに私たち子どもは「大人」に生まれ変わるのだと思った。

しかし残念ながら私の作った「大人」に人間らしさは微塵もなかった。「大人」は学校という場でしか存在しないものだからである。それは歯も磨かないし、道で転ばないし、泣かないし、悩まない。

「大人」になれない自分に絶望し、許せない。成人を前に焦っていた

自分が先生と呼ばれるたびに「大人」が思い浮かんだ。
私が人間である限り絶対になれない存在が私のそばに常にあって、自分がそこから外れた瞬間に恐怖に襲われる。私は大人の立場に立っているのに、あの立派な「大人」にはなれないと絶望するのだ。そんな自分を自分が許せないのだ。

成人になる、ということを前にして、私は少し焦っていたのだと思う。周りの友達が「大人」に見えて仕方がない。でも私は違う。私にはできない。
結局それは同じように友達を見えているところのみで判断して理想化していたに過ぎないのだろう。

思えばかなり前から大人であることを要求されていた。
敬語を使いなさい、小さい子やお年寄りに親切にしなさい、まとまりのある文章を書きなさい。
これはただの義務教育の一環ではなく、大人であれ、ということも暗に示していたのかもしれない。
こんなにも大人になることへの要求が世の中に溢れているのなら、大人になるということはそこまで大それたことではないのかもしれない。
たとえば小学生の時に職員室の前で「〇〇せんせー、いますかー」と言っていた私が高校生になって「〇〇先生はいらっしゃいますか」というようになっただけでも大人になったと言っていいのではないか。

大人の定義は場合によって変わる流動的なもの。大袈裟なことでもない

私は大人を勘違いしていた。
大人は決して立派なものではない。絶対的な存在ではない。その定義は場合によって変わる非常に流動的なものであり、大袈裟なことでもない。子どもと大人を全く別のものとして考えていた自分は間違っていたと思う。
成人式は新成人の変身を表すものではない、と今なら言える。今までの人生に上書きしながら、立派ではない部分を事実として記録しながら生きていくしかない。大人になりきれない自分を受け入れなければならない歯痒さに耐えるということが大人になっていくということなのだろう。

今の私の心は平穏ではない。自分から一歩離れて客観的に見つめることができる時と、自分に没入し、絶望する時がある。今でも「大人」の呪縛に苦しんでいる。
でも仕方がない。ある一つの「大人」にこだわらず、中途半端に自分を許しながら生きていこうと思う。