笑顔の裏で不安な私。飲酒や迷惑行為をする新成人たち

今年の1月、成人式を迎えた。良品質の振袖に袖を通して煌びやかなかんざしを髪の毛に通し、いつもより気合を入れてお化粧をした。
その姿に家族や道行く人から「おめでとう」と声を掛けられる。ありがたいことだ、と思い、背筋を伸ばして笑顔で「ありがとう」と礼を述べる私の姿はまさに大人の門出にふさわしい姿と言っても過言ではなかっただろう。

しかし、「ありがとう」と言う私の笑顔の裏には、「こんな私が社会からはもう大人として扱われるの?まだ一人では何もできないのに」という不安にも近いものが渦巻いていた。そしてその感情は私に対してだけでなく、他の新成人にも向けられた。
式典の挨拶の時間に耐えきれず会場を途中退出する者、会場付近でたいして中身の減っていない一升瓶を掲げる者、警備の方に悪態をつく者たち。
たった10分間の挨拶も耐えられない、会場付近で飲酒や迷惑行為を行う20歳の姿。それは成人ではなく20歳の子供であり、成人式の意味をはき違えているように見えた。「こんな人たちが大人の仲間入りをしていいのか」と自らを差し置いて心の中で呟いた。

見切り発車のように迎えた「その時」。自分に恥じない自分を増やすこと

小学生や中学生の頃は、自分が「成人」するのはずっと先で、「その時」になれば私も、他の人も素晴らしい人間になっているのだと、思っていた。しかし現実では時間だけが私を置いていき、精神的な成長が乏しいまま見切り発車のように「その時」を迎えてしまった。
そして自らの内面が成長しきっていないことを外見で隠すとともに、周囲の大人たちも過去の私が思い描いたような大人ではないということが徐々に判明してきた。

私は飲食店でアルバイトをしているが、様々なお客様がいらっしゃる。
注文した商品が出来上がるのが遅いと怒りだす方、お釣りを渡す際にお礼を言って下さる方、お一人で椅子をいくつも占領される方、お帰りの際に御馳走様と言って下さる方。
みんな一括りに「大人」なのだ。その「大人」がいくつも細分化されて「短気な大人」「謙虚な大人」「他人の意見を聞き入れない大人」というようにカテゴライズされるのだろう。

ならば私は「どのような大人」になりたいかを見極めようと思った。漠然と完璧な人になろうと思い込んでいた私は理想像だけを抱く「子供」で、現実の大人や社会には嫌な部分が山のようにあることを思い知った上で、その中でも自分が自分に恥じない部分を持つことが、大人になるということであり、その部分を増やすことが「大人」との距離を縮め、少しずつ「大人」に近づいていくのではないか。
20歳になったから、成人式に出席したからといって一気に大人にはなれない。一生をかけて人間として成長し続けることが大人になるということだと思った。

焦りや不安、恐怖…それでも乗り越えていかなければ

成人式で騒いでいた彼らも、心のどこかで「もうこんな自分勝手に振舞う機会はないかもしれない。今日が最後かもしれない。今しかない」と子供を卒業しなければならない焦りや漠然とした不安から、極端な自己主張に走っているようにも見えた。その行為を恥じないのは一緒に騒いでくれる仲間がいるからであり、社会に出れば一人で戦わなければならない時が必ず来る。
一人が、怖いのだろう。怖いから、大声を出す。威圧する。そうすることでしか埋められない不安がある。その不安と折り合いをつけて他人や自分に危害や迷惑を及ぼすことなく、乗り越える術をこれから私たちは身に着けていかねばならない。

どれ程長い時間を掛けてもいい、自分に恥じない部分を積み重ねていくのだ、そうして人は人と成り、「大人」との距離を縮めていくのだろう。
私は成人式に出席して、そう感じた。