楽しいイベントだったけど、母の面倒くさそうな顔が悲しかった

小学生の時、バレンタインが一大イベントだった。
好きな子にあげるというよりかは友達と交換するいわゆる「友チョコ」が盛んで、2月に入ると何を作ろうか、誰にあげようか、どんなラッピングをしようか、いつもウキウキしていた。

そんな楽しいイベントだったバレンタインでも、悲しい気持ちになる事があった。
チーズケーキ、トリュフ、アイシングクッキー……味だけでなく見た目もすごく綺麗なお菓子たちと、「お母さんと作ったんだ」「お姉ちゃんと作ったんだ」なんていう同級生の言葉。私の母は料理があまり好きではなく、自分以外に台所に立たれるのもあまり好きではない人だった。
だからバレンタインだからお菓子を作りたい、そう言いだすのにも毎年勇気が必要だった。

ダメとは言わないものの、その顔が面倒くさそうに歪むのは毎年の事だった。だからクオリティの高いお菓子を渡してくれるクラスメイトの事が羨ましくて、なんだか切なくて、チョコレートを溶かして型に入れた固めただけの自分のチョコレートが急に恥ずかしいものに思えてきてしまう。
昨日の夜はあんなに皆に渡すのが楽しみだったのに、そんな自分もまとめて恥ずかしく思えてしまう。その気持ちは、大きくなった今でもずっと覚えていた。

年の離れた妹が作るチョコに、自分を重ねて思わずダメ出し

高校生になって部活が忙しかったこともあり、バレンタインに張り切ってお菓子を作る事もなくなった。私には年の離れた妹がいて、彼女が小学校低学年だったその年のバレンタイン、お友達にチョコを作るのだと張り切っていた。

私と同じように星やハートの型を買って、踏み台を使いながら一生懸命湯煎をする。
「ねえ、ブラウニーとか作る?生チョコとか、カップケーキとか。ラッピングももっと可愛いの買いに行こうよ」
勝手に当時の自分と重ねてしまって、私は妹にそんな言葉をかけた。
「ううん、いい」
「なんで?作ってみようよ」
その方がいいだろう、妹も嬉しいだろう、なんて勝手に思い込んでいた。

それでも妹がいいと首を振るから、なんだか私も意地になってしまって。
「そんなのじゃなくてさあ、もっといいの作ろうよ。きっとみんな喜ぶよ」
言ってしまった後にハッとした。
まだ書きなれない字で一生懸命材料をメモして、自分の身長の半分くらいあるカゴを自分で持って、妹はウキウキで買い物に行ったのだ。渡したいお友達の数を小さな指で数えて、ラッピングと飾りを選んで、それを私は全て否定した。

罪悪感に駆られたわたしに、妹は何も気にした様子はなくキョトンとした顔で私を見る。
「なんで?これ、すっごい可愛いよ」
自分が型に流しいれたチョコをみて嬉しそうに妹は語った。
「これは下にホワイトチョコレートも入ってるんだよ」「これはニコちゃんの顔になってるの」「この星のやつはお父さんにあげるんだ」なんて、すっごく嬉しそうに。

情けなかったけれど、あの時の楽しい時間と気持ちを思い出した

なんだか自分がすごく情けなくなった。でもそれと同時に小学生の時のドキドキした気持ちを思い出した。
お菓子のクオリティとかそんなの関係なくて、皆でワイワイチョコレートを交換するあの時間が好きだった。
自分と同じようなチョコも、なんだかお洒落なチョコレートも、多めに作ったから少し余ってしまった自分のラッピング済みのチョコレートも、全部がまとめて入っている下校中の紙袋が好きだった。

その思い出があるだけで十分だった。
私は気づけた。楽しい気持ちだけじゃなくて少し切ない気持ちも、放課後に手紙で呼び出したあの人を待つ泣きそうなくらいドキドキする気持ちも、全部全部含めて私はバレンタインが好きだ。

それに気づいて、なんだかうれしくなったのだ。
妹に謝ってからチョコレートを刻むのを手伝った。
その夜に、私はまた一段とバレンタインが好きになった。