「大人になったね」の返答に困りながらも、曖昧に微笑んだ
昨年末、久しぶりに叔父さんと顔を合わせた。コロナ禍になってから、はじめてのことだった。
マスクをして10分程度の立ち話。近況を軽く話して、次に会えるのはいつになるかわからないけれどまた、と別れる時に、叔父さんがしみじみとした口調で言った。
「なんだか、とても大人になったね」
私は何と返事をしたものか、大いに困った。つっかえながら、自分では分かりませんが、と曖昧に微笑んだのも大人だったかもしれない。
思い返せば、大人とは不可思議な存在だった。
大学進学と共に一人暮らしをするまで、私は物知らず極まりなかった。それは、お勉強以外する必要なしと締め付けてくる母のせいでもあり、その環境に甘んじていた私のせいでもある。
高校生にもなって、住んでいるところが賃貸なのか持ち家なのか分からなかったし、ガス水道電気の料金をどうやって支払うのかも知らなかった。そもそも、生きる基盤について、興味を持たなかった。
それらを当たり前のようにこなす大人たち、更には働いてお金を稼いでいる彼ら。未知の仕組みを難なくこなす。
無知な子どもだった私には理解ができなかった。自分が大人になる想像も、一欠片もできなかった。いずれは歳を取り、私も不可思議の仲間になることを恐怖していた。
大人たちが問題なく解決する煩雑な色々を、私は、できそうにない
はじめての一人暮らしは、全てを親に整えてもらいスタートした。
相変わらず無知な子どもだったが、大学の授業やアルバイトをこなすことで多少、何かが前進したように感じた。もっとも、物知らず極まりない、が極まるに変化するくらいのことだったが。
その後、就職してからの一人暮らしでやっと、基本的な色々と向き合うことになる。転出、転入届とか。ガスを使うためには立ち合いが必要とか。免許証の住所を変更するとか。
当初、わからないこともわからなくて途方に暮れた。この世間知らず、と心の中で自分を罵倒しながら、インターネットで検索しまくった。そして引越しに伴う手続きが多すぎる、と絶望した。
加えて、4月から働くための準備もある。この煩雑な色々を、世の中の大人たちは問題なく解決しているのか。私は、できそうにない。
結論から言えば、問題なく解決した。
私の力ではない。手続きに市役所や銀行などへ行くと、そこにいる大人たちが全てのやり方を親切に教えてくれたからだ。私がやったのは印鑑とか住民票とか、必要な物を調べて持っていっただけ。
大人に見えてもやっぱり中身は子ども。大人とは未だ不可思議である
よくできた世の中だな、と思った。子どもの私が、大人みたいになれるのだもの。
こうして自分で契約したアパートの一人暮らしが始まり、働き始めてお金を稼いで。
何をもって大人たり得るのか、どんどんわからなくなっていった。相変わらず自身の有り様が子どもに思える。物知らずも健在。なのに社会の歯車となり働いて生きている。
昔と違うのは、必要なことを知ろうとするところだろうか。お勉強しか能がなかった私は、生活するために必要なことを調べて実行するようになった。仕事を辞めたとき、結婚したとき、子どもが産まれたとき。対外的な体裁を整えるという点で、大人に見える。けど、やっぱり中身は子どもだと感じることが多い。
大人とは何なのか、未だ不可思議である。