中学生まで、私に好きな物や事なんてほぼなかった。授業で数えきれないほど行った「私の好きなもの・趣味」の発表は、姉が好む漫画を一通り読んで、「これが好きです」と薄っぺらく説明していた。
私の「仮の好き」は誰かのもの。空っぽで、入れてもすり抜けていく
好きな物や事を作る理由は、人と一緒にいるためである。
物心つくと、皆なぜか「集団」を気にし始める。正直一人でいるのが一番楽だと思いつつも、日常のルールに抗う気はさらさらない。「女子は共感で関係を作る」とどこかの記事で読んだので、グループの誰かが好きと言ったものや流行は、チェックするようにしていた。
私の「仮の好き」は誰かのもの。結局空っぽで、入れてもすり抜けていく。淡々と過ごす日々の大半は、あってもなくても良いようなものだった。
高校1年生の冬。友人のたった一言で、私の世界は大きく揺らぐ。
「最近この子が可愛いって思って。推してるんだよね」
それは、国民的女性アイドルグループのメンバーだった。この時はグループ5周年だっただろうか。紅白にも出場経験があり、私も名前は聞いたことがあった。
ふうん、と思いながら帰り道に友人の推しを何気なく検索してみた。
確かに可愛い。家に帰ったら動画も観てみよう、と頭の隅のToDoリストに一つ付け加えた。
メンバーの一人から目が離せなくなり、「好き」はどんどん膨らんだ
「グループ名 検索」。いくつか知っている曲はありそう、と思いながらスクロールをしていく。ふと見つけたものが、テレビの冠番組での番組収録の様子だった。
持っているエピソードトークが弱く、思わず泣いてしまうあるメンバー。友人の推しではなかったが、何か惹かれるものを感じた。纏う雰囲気の儚さに、目が離せなくなっていた。
1週間後、携帯の写真フォルダは彼女の写真でいっぱいになった。これまで通り抜けていった「好き」は、みるみるうちに膨らんでいく。
グループの存在がまだ知られていない頃の苦悩。初センターに抜擢されてから、殻を破るために一歩踏み出したあの瞬間。13枚目シングルのミュージック・ビデオ内のエンディングで、手話を使って「またね」と微笑むシーン。悲しさも嬉しさも言い表せないほどの愛しさも、全て「推し」が与えてくれた。
それからの私は、友人達が嬉しそうに語る「推し」の話を楽しいと思うようになった。空虚だった世界は「推し」の記憶で満たされ、色鮮やかに染まっていった。
もし今「推し」に会えたなら、「またね」と手話で会話をしたい
芸能界、とりわけアイドル界という世界は、一般の人が生きている世界よりも複雑で難しいものだと思う。それでも約7年半、グループで努力してきた姿は、今でも私の心の支えである。
ただ現実ではこのような個人的な話を「推し」に伝えることはできない。会うことすら難しいし、会えても「仕事の一環として」だ。私の立ち位置も「大勢いるファンのうちの一人」。それでも、私にとって「推し」は特別な存在なのである。
私は西野七瀬さんに出会って、世界が変わった。ひたむきに努力する姿を見て、「私ももう少し頑張ろう」と辛い状況でも踏ん張ることができた。どうかお体に気をつけて、幸せでありますように。
もし今「推し」に会えたなら、「またね」の手話で会話をしたい。
ずっとずっと好きなあのシーンが目の前で体現された時、私の世界はどう色付くのだろうか。