私は恵まれた環境に育ち、お金に不自由をしたことがない。子ども時代を通じて、物でも習い事でも、お金を理由に望みが叶えられなかったという記憶は一切ない。
そのためか、働きに出るようになってから、「自分の収入に合った暮らし」から逸脱してしまうことが時々ある。

最も大きな衝動買いは切子の花瓶。技術や出会いへの敬意として

生涯を通じて最も大きな衝動買いとなるべきものが、切子の花瓶だ。
硝子が好きで、ふらっと立ち寄った百貨店の展示即売会で、その個性的な形状に目を惹かれていたのだった。
最初から買うつもりはなく、お店の方とお話しして、私の一か月分の手取りほどであるその値段を聞いた時にはなおさらだったが、「ちなみにいくらなら買いますか」と問われ、「そういう問題ではない」と繰り返し答えるやりとりには弱った。

切子職人自体が減っている中で、各々の技術と感性はその有限の肉体に宿るものでかけがえがなく、作品の特殊な形状は長年の試行錯誤の末に実現された有数のものである。いつでも手に入るものではなく、偶然にも私の感性はその作品の輝きと出会ってしまった。
将来それに見合う収入が得られたときには、などという時はきっと来ないし、いつまでも自分の好きなものにお金を投じられるとは限らない。

切子は、技術や出会いへの敬意としてお金の支払いを決めた例だが、物を手に入れるという契機を伴う点ではまだわかりやすい。
我々は、一流の技術やサービスを享受すること、その無形の機会に対しても、お金を払う。

女性用風俗のサービスへの支払い。相手への期待と虚脱感

私は最近、女性用風俗を利用してみた。
きっかけとしては肉体的な欲望があり、相手に気を遣わなくてよい関係の他を、サービス提供者の男性に求めるつもりはなかった。
しかし、実際にお会いして、万事において優しく気遣ってもらえると、やはりまたこういう時間を得たいと、そしてその彼のことをもっと知りたいと思ってしまうものなのだった。
仕事だからサービスしてもらっているに過ぎない、という気持ちと、しかし日常で出会う余人には望めない類の労りに、彼の根本的な優しさを見たいという気持ちとがせめぎ合う。

明確な対価の支払いによって、自らが受益者となることを正当化できる関係という面では、お金で切れる関係の気楽さもある。他方で、SNSを介して時間外のやりとりに応じてもらえるといった、厳密にお金で切れない関係性もある。
この関係において、相手はプロで仮想性をまとった存在であり、自分は潜在的な客であるということが、本質的でもあり虚しくもある。

その晩、疑いなく私は満たされた、幸せな気持ちで床に就いたのだ。しかし翌朝、起床した私を襲ったのは強烈な虚脱感だった。

その正体が何なのか未だ明らかではない。自分が大切にしてもらえたと思ったのは、お金の見させる夢に過ぎないのではないか。
彼との関係を維持するためには、お金を得て注ぎこみ続けなければならない。心身は疲れて休みたいと思っているが、自分は会社からお金を与えられ生かされているから、滅多なことでは休まない。でもその義務感のため時に死にたくなっている。
人間関係はお金や契約に先立たれるものなのか。

究極的にお金を信用したくない。人間関係を基礎とした生活を

究極的にはお金を信用したくないという思いがある。私の日々の労働の価値が、紙切れや印字された数字に変換されるなど何かの噓に違いない。お金という形で持っているよりは、大切な人たちと楽しみを共有するためや、困難にある人の助けとなるように使いたい。

しかし、祖母の死に立ち会って生々しく思う。
だんだんと自分の身の回りのことが自分で果たせなくなっていくとき、お金があればより快適な環境で、尊厳を守られて生活ができる。死に向かう際の苦しみを除くため、あらゆる手段を尽くすことができる。命を永らえるために取りうる選択肢が与えられる。お金がなければこれらのことが保障されない現実を、我々は生きている。

元々我々が生きるための糧は誰のものでもない。それを、誰かが多く持ち誰かが少なく持つことこそを原理として動く世の中は間違っていると思う。
恣意的に操作されうる媒体を至上とし万能として頼むのでなく、互いに顔を合わせて交渉し信頼できる人間関係を基礎として、生活を築いていきたい。