ひとりで美術館に行く。作品との出会いで私自身が色づいていく

私は休日、美術館に行くのが大好きだ。学生時代は親友とよく行っていたが、今ではもっぱらひとりの楽しみになっている。
西洋画ではルノワール、日本画では上村松園など、女性が描かれた画を鑑賞することが特に好きだ。普段、男性の多い職場にいるせいか、女性の画を観ると癒されるというか、もしかすると自分ももっと女性らしさを出したいと、暗に思っているのかもしれない。

美人画に描かれた女性はどんな気持ちか。「恋をしている女の顔だな」とか「切に誰かを求めているな」とか。
風景画では、屋根の茶色はティラミスの色、焦茶色はビターチョコの色、コーヒーにミルクを少しずつ溶かしていったときの混ざり具合などと、画の中の色を自分の好きな食べ物の色に例えてみたり。色の組み合わせ、絶妙な配色に惚れ惚れする。
年を重ねるごとに色づいてきた自分というパレットが、美術館のあらゆる作品と出会い、また新たな色が加わり、色づいていくのがたまらない。家では、たまに塗り絵もする。

私にとって音楽は、喜びの友であり、悲しみを安らぐ薬だ

そして、毎日音楽を聴く。この世の歌は全ての恋愛パターンを歌ってくれているんじゃないかと思うくらい、歌詞は自分の気持ちを綴ってくれている。
「出会わなければ知らなかった痛みを感じる恋の歌」「愛する人との距離感を歌った歌」「近すぎて気づけなかった大切な人を思う歌」「逢いたいの一言が言えない、もどかしい恋の歌」「出逢う前に戻ってやり直したいと恋を後悔する歌」など、心から共感する。ありとあらゆる感情が一気に心を占めてしまうのは、きっと恋だけ。歌詞に思いっきり共感し、もたれかかる。

小さい頃から、いや、母のお腹にいたときから聴いていたクラシックも聴く。移動中の車の中で、必ずと言って良いほど家族で聴いたモーツァルト、コンクールや発表会で弾いたピアノソナタ、母が私との練習後よく弾いていたショパンの遺作、病室で父と聴いたチャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルトなど、昔の思い出に寄り添いたくなるとき、クラシックは欠かせない。私にとって音楽は喜びの友、悲しみの薬だ。

ふらっとひとりで旅にでる。ひとりを楽しめるのは素敵なことだ

最近では休日、ふらっとお酒を飲みながら本を読むことができる書庫バーに行き、本を手に取り読み進める。
たまたま手にした本の主人公と、自分の状況が重なったときの高揚感。相手はあの時こういう気持ちだったのか、と説明してくれているかのような感じ。自分の恋の続きはどうなるのか。本の主人公は切ないエンディングを迎えたけれど、自分はハッピーエンドを迎えたい。どうすれば迎えられるか、本の主人公はどうすべきだったのか、などとあれこれ思い巡らせる。

ラーメンが食べたくなると、人気店に並ぶことも惜しまない。今ではお洒落なラーメン屋も増え、女性一人でもかなり行きやすくなったと思う。
また、昔は「朝は食パン」という固定観念があったが、最近では個人店の色々な種類のパンを試すようになった。QOLをかみしめる瞬間だ。

ひとり旅の楽しみの一つには、酒蔵訪問がある。酒蔵目当てで行くわけでは決してないが、特に予定していなかったところに、酒蔵が現れたときの嬉しさときたら言葉に表せない。お酒を実際に造っている人の話を聞きながら、片っ端から試飲させてもらうのは至福のひとときだ。

一人っ子の私は、『ひとり』の楽しみ方には自信がある。
押し入れが大好きでこもって、母のシャネルのハンドバッグをあけようとして壊して、咄嗟に不穏な空気を察知し、ベッドで休憩していた父の隣に潜り込んで隠れるも、母に見つかり激怒された幼い頃の私から、ずいぶん大人びた『ひとり』の時間を過ごせるようになったものだとしみじみする28歳。
小さい頃の私が、今の私を見たら何と言うだろう。強く豊かになったね、でも本質は何も変わってないよ、そして、『ひとり』を楽しめるのは素敵なことだけれど、逢いたい人がいるなら逢いに行きなよ、とかかな。