14歳のわたしがいる。夏、3階の化学室に向かう渡り廊下を走っている。
教室移動で、いつも一緒にいるグループの子たちに置いていかれてしまった。だめだ、追いつかなくちゃ。ひとりでいるところを誰かに見られたら……前方にいるふたりの少女の背中を追った。

企業に入り、「ただのわたし」は「わたしたち」のひとりになれた

思えば、わたしはずっと「ひとり」への恐怖を心の奥底に抱いてきた気がする。
休み時間や教室移動、新しいクラスで決してひとりにならないように。特別な日をひとりで過ごすことのないように。
「ひとり」への恐怖は、大人になっても変わらず持ち続けていた。新卒では社会的に良いとされる企業に入り、わたしは「わたしたち」のひとりであることに安心した。なんの肩書きもない「ただのわたし」になることを恐れた。

エーリッヒ・フロムの「愛するということ」という本によると、「ひとり」は「耐えがたい牢獄」だという。孤立感から逃れるために昔の人は頻繁に乱痴気騒ぎをして現実を忘れた。現代の飲み会やナイトクラブも、きっとこの習慣にルーツがあるのではないかと思う。
なるほど、こんなにも「ひとり」でいることを恐れるのにも納得できる。人間はいつも、ほんとうは「ひとり」だということを忘れたいのだ。

時は流れて、26歳のクリスマス・イブ。わたしはこのうえなくひとりだった。しかも、入院していたし無職だった。
11階の嵌め殺しの窓から見える夜景は、昨日よりも一段とはしゃいでいる。わたしは一体、なにをやっているんだろう。消灯時間の22時がやってきて、情け容赦なく光を奪われた。
暗闇の中で、絶望の海にいた。職もなければ、恋人もいない。〇〇会社の〇〇さんとか、〇〇さんの奥さんとか、そういうもちうる肩書きをなにももたない、限りなく裸に近いわたしがそこにはいた。

ひとり時間で見つけた、限りなく裸に近い「わたし」

クリスマスそして正月、一年でいちばん浮かれた季節が終わったあと、わたしはひとり退院した。退院してからも安静にしなくてはいけない生活は続いたので、必然的にひとりでいる時間が増えた。
ひとりで本を読み、ひとりで音楽を聴き、ひとりでご飯を作って食べる日々。

いままでの人生を思い返しても、こんなに生活の中にわたししかいない日々ははじめてかもしれない。そんな生活を続けるうちに、わたしは段々と自分の感情や気持ちに目を向けるようになった。
例えば、誰かの言葉を受け取って嬉しいと思ったら、それをちゃんと見つめる。反対に、誰かの言葉に傷ついたらそれを認める。無視しない。
そんなことを繰り返すうちに、わたしは限りなく裸に近いわたしのことを少しずつ好きになった。

思い返せば、わたしは今まで自分のことをあまりにも蔑ろにしてきた。「自分がほんとうはどう思っているのか」から目をそらし、その時属している組織の考え方や一緒にいる人の考えを内面化していた。そのことにも、気付いていなかった。

わたしは裸のわたしがけっこう好きだ。いつでもポジティブで、つらい経験をユーモアの糧とし、自分が誰かを傷つけたかもしれないことに傷つくわたしのことを、結構良いやつだと思えている。

近く、社会復帰をする。「わたしたち」の中へと戻っても、確固とした「わたし」をもっていたい。