ただただ、感動だった。
しばらく息をするのも忘れるくらいに。

不安な日々のなかで心を動かされた、大学一年生の必修科目の授業

演奏家を目指す身として音楽大学に入ったものの、上手く学校にも馴染めず、人との距離感も身の振り方も分からず…
演奏家としての自分の将来も不安な毎日だった。

そんな日々の中で一番心を動かされたのは、音楽に関する授業ではなく、日本語表現、という文学を愛する先生が行う、大学一年生の必修科目の授業の一コマだった。

こんな夢を見た、で始まり
もう死にます、と突然言う目の前の女。初対面にもかかわらず、主人公はその女のために真珠貝で墓を掘る。
100年経ったらまた逢いにくるという女の言葉を信じて、自分の上を赤い日が通り過ぎていくのを見ながら、ただ時が過ぎるのを待つ。

そして100年の時が経ち、騙されたのではないかと主人公が思いかけたとき、目の前に真っ白な百合の花が咲く。
そして主人公はその百合の花に接吻をする。

この短編、夏目漱石の"夢十夜"より第一夜を読んだ時
あまりに情景がはっきりと、美しく頭に浮かんだので、実は私が実際に経験したことだったのではと錯覚したほどであった。

読み手にたくさんの解釈の余地と謎を残し終わる短編に感じた感動

字が刷られただけのプリントから、湿った土の匂いもしたし、女の顔も鮮明に脳裏に浮かんだ。

真珠貝のきらめきも、その裏に差す月の光も見えたし、骨にこたえるほどの百合の花の香りも、無機質な教室の中に充満しているかのようであった。

そして話を読み終えたあとで、100年経って咲いた百合の花はその女なのか、文章内にちりばめられたヒントを探し当て、100年後の展開との繋がりを見つけた時は宝探しをしているようだった。

この話はどこかに正解が書いてあるわけでもなく
読み手にたくさんの解釈の余地と謎を残し、何もはっきりさせないまま終わる。

それによって読み手はいつまでもこの話が頭から離れられないし、きっと何年か経った後にまた読み直して、違う発見をするのだろうと思う。

さして長くもない一遍に、こんなにも感動させられ、考えさせられるものなのかと驚いた。

小説という過去から届いた手紙を通して気づいたのは、表現の魅力

小説はまるで、何十年も何百年も前から届いた手紙のようだと常日頃思っていたが、
音を記した楽譜も、何十年も何百年も前から届いた手紙である。

自分がその手紙に出会えたことに、心の底から幸せだと感じたと同時に、
表現、という正解も実在もしないものが、いかに計り知れないほどの力と魅力に満ち溢れているのかに畏れすら感じた。

自分が演奏家として、表現者として、どうなりたいのかを指し示された気がした。

自分の解釈や感じるものを、より正確に読み手(聴き手)に伝える手段をひたすら探す。
そこに決して正解はなく、他の一般的な解釈と違っても文句を言われる筋合いはないし、恥じる必要はないのだと思った。

それよりも、相手の心に訴えかけるためには
一言一句、音楽で言うなら一音一音を、より細かく丁寧な表現と描写が必要なのだと、あまりにしっくりと腑に落ちて、
教室の一番前の席で一人泣いている怪しい人になってしまった。

表現に身を砕くほど真摯に向き合うように。自分の軸を作ってくれた

この短編を読んで以降、前にも増して随分と多くの本を読むようになったし、
"表現"というものに身を砕くほど真摯に向き合うようになった。

大事な人が亡くなった心の内を表現したい、と思い、そればかり考えすぎて、
電車の中でも授業中でも、家に帰ってもところ構わず涙が出てしまうようになったこともあった。

30分近くある曲のうちの、たった10秒ほどのフレーズに、何時間も考え込んでしまっては、次の日全く違う表現を思いついてまた悩む、というような、なんとも生産性の悪い、ともすればはた迷惑な人間になってしまったがいつか自分が感じたような、感動を生み出せる表現者になりたいと、自分の軸を作ってくれたのがこの短編だった。