「幸せ」とは、追いかけて得るものではなく、感じるものだ
私なりの一人の楽しみ方。大切にしているのは、感じること・アウトプットすること・動くことの3つだ。
まずは感じてみること。「おいしい」や「面白い」、「嬉しい」や「気持ちがいい」のような、自分のしている動作に対してふと湧き出る感情を、感じたり、嚙み締めることが「楽しい」や「幸せ」につながると私は思う。
自分を満たす感情は、世間ではまるで幻のような、自分で追ってつかみとるものかのように扱われているけれど、本当は自分で感じる感情であって、世間が作り出すステータスや価値ではない。「幸せ」は追うものではなく、感じるものだ。
そしてそれは、ひとつひとつが意外と小さい。「この花きれいだな」「このパンおいしいな」などとふと感じることが、花を愛でたり、明日の生きがいや楽しみのきっかけになる。小さいことの積み重ねだが、その行為が、自分の楽しみごとになっていくのではないか。
最近、近所を散歩していると、たくさんの家の庭先で梅や桃の花が咲き誇っている。最初は「きれいだな」と感じ、だんだん「可愛いな」と思い始め、次はもっと見たいと足を止めて観察するようになった。毎日見ているのに、まるで庭園に小旅行しているみたいで私の小さな楽しみになっている。
日常から得た情報をアウトプットすることで、楽しみの数が増える
次はアウトプットすることについて。一人でいるとどうしても手元の携帯をいじり、いろんな記事や動画を楽しみ、無意識にたくさんの情報を収集している。それも一つの娯楽だが、吸収しっぱなしでは情報の楽しみ方は半減してしまう。何のためにその情報を収集したのか。それが自分の理想であったら、実際にやってみて情報をアウトプットしたほうが、思いのほか気持ちがいいし、実現できたという感動と形になった充実感がある。
私は料理や掃除をするが、毎日だと気が滅入るし、特に料理は「最近食べたものとかぶらないように」と何かしら条件があると、何を作っていいのか余計に気が滅入る。
そんなときは好きな料理家のレシピ動画を見てイメトレし、実際に作ってみる。おいしく作れるのかなと自分のちょっとした挑戦になり、レシピ通りに作れたときは達成感がある。初見で再現できたときは、まるでゲームをクリアできたかのような嬉しさがこみ上げる。
また「今日はこれを作る!」という小さな予定を立てるのも楽しみのひとつ。一度真剣に予定を立てた方が、「今日何作ろう」と何度も考えなくて済むし、予定が決まった方がその後の段取りも立てやすくなる。「作りたいものを作る!」という小さな予定は、億劫な料理を少し楽しみにさせる。
ものを作る以外でも歌を歌ったり、独り言で話したりと何かを吐き出すことも意外と発散になる。
疲れてしんどかったり、なんとなく充実感がなくて満たされないとき、私はとりあえず歌を歌ってみる。お風呂で歌詞が流れる動画を見ながら歌うのは特に好きで、ただ動画を見るよりも気が和らいで、歌うのがだんだん楽しくなってくる。特にそれが洋楽で、うまく英語を発音できたときはとても嬉しい。自分は韓国語や中国語も好きなので、とりあえず真似して歌い、自分の歌える曲のレパートリーを増やしている。
「やりたい」という自分の心を信じて行動すれば、習慣になる
最後に動くことについて。行動している人は運が良いと聞くが、一つでも多く予定をこなしたり、思っていた以上にたくさんのことができた日は充実感がある。
昔はものすごく出不精で、やりたいことがあってもそれを上回るやる気のなさが勝ち、休日はベッドの上で一日が終わることが多かった。
あまりにも腰が重くて、外に出かけたり、何かをするにはちょっとした覚悟が必要だったが、外出した日は部屋を片づけられたり、そのまま料理を作れたりと意外と動けた。自分の中にやる気スイッチなるものがあると知り、押せるきっかけを増やしてみた。また、やる気がなくても動けそうなときはとりあえず動いてみたりと、腰が軽くなる習慣を少しずつ作った。
今では起床後に洗濯機を回し、部屋を整え、洗濯ものをたたむという気が付いたらできあがっていたルーティンを休日でもしている。これが私のやる気スイッチになっていて、小さなルーティンが終わったら、昨晩立てておいた予定を始めていく。
やりたいことがあっても、やる気がでないことに私は長年悩んだ。なぜやれないのかを深堀していくと、本当はやりたくなかったり、ただのプライドだったり、腰が重くて動けないだけであったりしたが、何よりそれをやりたいという自分の本心を、自分で認められなかったことが一番大きかった。
本当はベランダでハーブや野菜を育てたり、きれいな糸で刺繍をしたかったが、そんな時間は無駄なんじゃないかと当時は本気で思っていた。中高の同級生たちと違って、自分は知名度の低い大学へ入学したし、その上就職にも興味がない。大学の友人たちもインターンに参加したりと、着実に大人への道を歩いている。頑張っている人とそうでない自分を比較して落ち込み、かといって何もしないわりに自分を否定して自分の好きなこともせず、携帯をいじって余計に無駄な時間を過ごした。
あれから6、7年が経ち、いろいろ経験してわかったが、当時の自分を受け入れれば良かったと心から思う。ダメ人間でも、「それが現実でそれが自分だ」と理解すれば、そんな人間でもできることを少しでも探せたのではないかと今だから思う。
一人を楽しむとは、自分の人生を、誰よりも一番楽しむこと
一人を楽しむということは、自分で自分を楽しむということ。気持ちの良い感覚でないとその感情は得られない。自分を受け入れ、仕方がないと許し、まるで自分とは違う人かのような、自分の大好きな人かのように自分のやりたいことに付き合い、実行していく。
お金がなくても欲しかったものを買ってみる。飲みたかった季節限定のドリンクを飲んでみる。最初はお金や時間がかかったりするかもしれないが、生きるにはたくさんのそれらが必要なのも事実だ。
一人の楽しみ方は、自分との付き合い方の延長線。動いて、やってみて、色んな感情を感じることが「楽しい」と、後にも思えるのではないだろうか。