新卒で入った会社はプラスチック関係の専門商社で、私は食品容器の品質管理に配属された。はじめて製造工場に行った時の衝撃を未だに覚えている。
その工場は東京郊外にあるこじんまりとした小さな工場で、人手不足がゆえに品質不良が多く、すでに取引停止アラートがかかっているような状態だった。工場に着いた時、普段はおちゃらけているOJTの先輩の目の色が変わった。

初めての工場査察は最悪。こんな仕事、私には一生できないと思った

工場査察という形で、工場に入った。私の目に飛び込んできたのは、老朽化した設備と黙々と働く作業員たち、多言語の注意喚起ポスターと、疲れ切った工場長の顔。そして、マスクをしていても鼻につくプラスチックの焼ける匂い。設備から発されるじめじめとした熱気と申し訳程度に置かれた扇風機。
デートで行ったカップラーメン工場とは全く異なり、いたるところに負のオーラが漂っていた。
そもそも品質管理に配属されたことに対して不満を持っていた私は入社3か月にして早くも、やめたい、と心から今の状況を憂いた。商社マンと結婚したいという浅はかな理由で入社した私にとって、この仕事は最悪という言葉に尽きた。
工場内を査察した後の会議も衝撃だった。私の父くらいの年の工場長や品質管理担当者に対して、二十代半ばの先輩が鋭い指摘で詰めていく。工場の人たちの背中がどんどん丸くなっていく。私にこんなこと一生できっこないと思った。

必死に働く工場の人の顔が浮かんで、私の中の正義感が爆発した

その後、品質改善に向けた計画書を受領した。素人の私の目から見てもお粗末な内容で、こんな工場が作っている容器なんて使いたくないと思った。
しかし、一方で限られた人材でどうにか製造ラインを回し、自分の子どもと同じくらいの商社マンに頭を下げる工場の人たちの顔を思い出すと、どうにかしないと、という気持ちが沸き上がってきた。
優等生だった小学生時代にまとっていた、正義感みたいなものが私の中で爆発した。

あっという間に2年経ち、細かい性格と要領の良さが良い方向に働き、社内外から評価されるようになった。私の成長と共に、あの小さな工場も着々と改善が進み、取引停止アラートも消え、安定的に製造を行っていた。一番最初に訪れた最低の状態を知っていたので達成感もあり、社内からも成功事例と賛辞され、品質管理という仕事に誇りさえ持てるようになっていた。
そんななかで、お粗末な品質不良が起きた。ただ、人体に影響がないレベルの不良で、かつ、突発的に起きたものだったので、何カ月もかけて製造した商品は大半が使えるもののはずだった。しかし、不良商品がいつ製造されたか特定できないという理由で、私は廃棄を指示しなければいけなかった。

泣いて仕事を全うできなかったけど、信頼関係はより強くなった

すっかり工場側の人間になってしまった私は、涙を流し、それを拒否した。
それは、ギリギリの経済状況を知っていたということもある。ここでまた出荷停止になったら、やっと拡充できた人員も雇用を持続するのが難しい。もうすぐ新設備を導入できるよう、融資も固まりつつあった。そんななかで商品を廃棄させるなんて、私にはできなかった。
取引先へ規格に合った商品を届けることが私たちの仕事だったということを忘れかけていた。
使い物にならない私の代わりに先輩が廃棄を指示した。工場の人は、私に対してありがとうと言い、廃棄を受け入れた。工場の人たちの方が、よっぽどビジネスを理解していたし、何よりも、ものづくりのプライドがあったのだ。
工場の立て直しが再スタートとなり、本件に対してこっぴどく怒られた私は、自分の役割を再認識し、先輩のように情に流されずに淡々と仕事をこなすようになった。
ただ、あの時の涙を知っている工場の人たちからの信頼は絶大で、過去よりも改善活動もスムーズにいったし、私が転職で退職するときには、工場長自らが菓子折りを持ってきてくれるほどの関係になっていた。

あの小さな工場が私の原点。今ではマーケティングの仕事が天職

商品の作り手と接したことで、普段、何気なく使用し、捨てられる食品容器が血と汗と涙の結晶ということを知った。
望んだ仕事では全くなかったけど、ものづくりの実際を知ったことで、身の回りの人工物への見方が大きく変わった。時には、小さな不良でさえも愛おしく思えるくらいに。
この経験がきっかけとなり、たくさんの人が関わって製造された商品を世間に知ってもらい、売れるようにする、マーケティング関連の仕事に就いた。学生時代は専業主婦に憧れていた私が、時に深夜まで働いている。
あの小さな工場が、私を天職に導いてくれたといっても過言ではない。人生、何が転機になるかわからないものである。