「心配しないで」という夫の声を疑い、専業主婦の自分に抱いた不安

私にとって、パン作りはやりがいのある「仕事」だ。
去年の春から秋にかけて、派遣の契約が切れて仕事がない時期があった。
わずかな失業手当を受け取りながら、私は束の間の専業主婦となった。
夫と二人暮らし。生活は夫の収入でやっていけるとはいえ、私は自分が若くて健康なのに働いていないことへの罪悪感を強く感じていた。
「家のことをやってくれてるんだから、十分働いてるよ。心配しないで」とドイツ人の夫は言ってくれた。
女性の社会進出が盛んなドイツでは、子どものいない専業主婦は極めて珍しいと聞いていた。

「家事だけで十分」というのは夫の本心だろうか。
そんなわけないだろう、本当はちゃんと就職したほうがいいに決まっているだろう、と、疑心暗鬼になってしまう。
私は家のことしかできないのか?勤められるところがないのか?
洗濯して、掃除して、買い物して、ごはんを作る。それだけの暮らしの中で、「私はこれしかできないのか?」という不安が何度も私を怯えさせた。

夫の歯がゆさが分かる私は、さっそくパン作りを始めることに

そんなときに始めたのがパン作りだった。
夫がもうお米を食べたくない、ドイツのパンが食べたいと言い出したのがきっかけだ。
専門店に行けばドイツパンは手に入ったが、小さくて高いのでそうそう毎日の食卓に出せるものではなかった。
そして夫も「おいしいけどちょっと違う…」と、自分の国とのちょっとした味の違いに納得できないようだった。

日本人にとっての、海外で食べる日本食と同じだ。おいしいけど、ちょっと違う。その歯がゆさを、海外で生活したことのある私はよく知っていた。

時間があり余っていた私は、かつて日本食を探していた彷徨った自分自身を救う気持ちで、さっそくパンを作り始めた。
去年の初夏。うちの食卓に夫のドイツの定番パン「ブリューチェン」が並んだ。それは夫が探し出したドイツのレシピだった。

夫は想像以上に喜んで、何枚も写真を撮ってドイツの家族に送って自慢しているようだった。

パン作りは「働かなきゃ」の固定概念を覆し、家時間の楽しみになった

「ドイツのパンがついに食べられる!嬉しい!」とパンを頬張るのを見ると、何かをやり遂げたような、誇らしい気持ちが湧き上がってくる。
夫にドイツパンを食べさせるのと同時に、日本食が恋しくて仕方なかった過去の私自身を救えたような気さえした。

それは専業主婦になってから感じたことのなかった達成感だった。
洗濯して、掃除して、買い物して、ごはんを作るだけの暮らしに、「パン作り」が加わった。
それは「買えないものを生み出す」「母国のものを食べたい欲求を満たす」という価値ある仕事になった。

それまで、家にひとりでいる時間を楽しむという気持ちになれずにいた。
何かしなきゃ。働かなきゃ。自分には働く能力があるはずで、それを証明しなければならないという固定観念に追い込まれていた。

毎日せっせとパンを作るようになり、毎日おいしく焼けたことの達成感を味わうようになると、ようやく「楽しむ」という気持ちが芽生えてきた。
私は家にいても価値あるものを生み出すことができる。それを自分で自分に見せられたのだ。

パン作りで見えるようになった「価値」。もっと自分に優しくなろう

誰しも、心の中に不安を抱えているのではないだろうか。
自分に価値があると思いたい。誇れる自分を探している。
でもそんな不安は幻なのだ。誰にでも能力が備わっていて、タイミングによって見えるか見えないかが変わるだけ。いつだって誇れる自分がそこにいる。

私はひとりの時間に初めて、自分の価値が見えるようになった。
これからはもっと自分に優しくなってもいいと思うし、これを読んだあなたもそうであってほしいと願う。