タオルや鉛筆は生きているようで、物はなかなか捨てられなかった

太陽に当たって、嬉しそうなバスタオル。
筆立てにまっすぐ立っている、クールな鉛筆。
道端に落ちて、持ち主を待つ悲しそうな手袋。

私は、小さい頃から、無機物も生き物のように思えていた。
寝室では、タオル生地のしわや形が大きな鳥に見えた。
トイレのドアをじっと見ていると、木目の中にいるうさぎがいた。
たいてい、無機物は無機物のままだが、時に私にも分かるような形で、彼らは私にその存在をアピールしている。

元彼から貰ったアクセサリーたちを捨てることができなかったのは、元彼への未練があったわけではない。
ほとんど四六時中、ずっとつけていたアクセサリーたちは、私の体の一部であり、相棒だった。
そっと外して、机に置いた時、なんだか寂しそうに私を見ている気がした。
「なんで捨てちゃうの?今までずっと一緒にいたのに。」という風に。
物には罪がないという言葉を理由に、今でも大事にとってある。

物を擬人化する自分の考え方が、いつしか幼稚に思えて…

このように物を擬人化してしまうと、なかなか物を捨てることができず、増える一方なのが困りどころだ。
しかし、今はとても便利な時代で、大抵のものはセカンドハンド品として売ったり、寄付という形で他の人に譲ることができる。
捨てるというのは、私にとっては殺傷と同等の行為なので、このようなサービスが充実していることに感謝したい。

物に魂が宿るという、つくも神の存在が信じられている日本では、このような考え方が蔑視されるということはない。
とはいえ、小学生高学年あたりから、このような考え方がなんだか幼稚で、恥ずかしいものだと思うようになった。
なんとしてでも普通の子でいたかった私は、いつしかこのような感性を封印てきればと切望していたのだが、ボールペンを床に落とすと反射的に「大丈夫?」とボールペンにテレパシーを送ってしまう思考を変えることができないまま、私は社会人になった。

物は作り手の分身。無機物を作る側になって気付いたこと

私はコンビニエンスストアなどで使用されている食品容器を開発するという、かなりニッチな部署に配属された。
そこで、商品が開発される過程を目の当たりにした時、私の考えは間違っていなかったのだと気づいた。
たとえ、すぐに捨てられてしまう食品容器でさえも、様々な人の思いがあり、たくさんの検証を重ねて、商品規格が決まる。
そして、その規格に準拠し、工場で量産される。機械で作られてはいるが、温度を設定したり、出来栄えを確認するのは人だ。

どんな工場量産品でも、作り手の魂は何にでも宿っている。作り手にとって、出来上がった商品は我が子のように可愛いはずだ。
まるで生きているように感じるのは、作り手の分身だからなのだ。

物を擬人化してしまうというのは、自分が恥ずかしいと思っていた感性ではあったが、無意識に人の思いを敏感にキャッチしていたのだと思うと、むしろ誇らしくも思える。
不思議ちゃんと思われるのは避けたいので、人前で物と会話するつもりは毛頭ないが、電池が切れるたびに「お疲れ様!」と、彼らを労う気持ちを忘れないように歳を重ねたい。