発達障害の診断を受けたのは小学2年生。人間不信のまま成長した私

いきなりだが、私は重複障害を抱えている。一つは自閉症スペクトラム障害、もう一つはてんかんである。前者は7歳、後者は18歳で診断を受け、27歳になった一昨年、精神障害者福祉手帳二級の交付を受けた。

初めて発達障害の診断を受けたのは、小学2年生の頃だった。未就学の頃から状況把握が苦手で、複数の病院を回った結果このような診断が下された。気が付けばいじめの対象であり、中学3年生まで状況が変わることはなかった。家庭環境にも恵まれず、両親は私をプライドのために利用しているようであった。当時の両親は教育熱心な家庭によくいる「厄介な魔物」であった。このような環境下で成長した私は、視線恐怖と人間不信のまま成長し、高校3年生の時にてんかん発作を起こした。体育の時間にその場で倒れ、痙攣しながら意識をなくし、救急車で病院へと搬送された。その5ヶ月後に二度目の発作を起こし、てんかんという診断を受けた。しかし、治療自体に大した苦痛はなく、服薬をすれば普通の日常生活を送ることができた。大学入学後も発作はなく、ストレートで大学院へと進学した。その夏頃、医師からは、「完治したと思うから、服薬をやめても良い」と言われ、6年に渡った服薬を一旦中止した。

発作の再発。重い身体を引きずりながら立ち向かった大学院修了と就活

しかし半年後、私は帰省中に再び発作を起こしてしまった。再発だった。
その日の午後に病院に出向き、事態を知った職員たちは私が病院に着くやいなや、騒然とした表情で迎え入れ、ベットを開けて下さった。多くの人に支えられているのだと感じる一方、それほど自身の身に重大なことが起こってしまったのかと思った。医師は、「9割以上の人は大丈夫なんだけどねー」と首をかしげながら、これまでのものとは違った薬を処方した。

その言葉は、相当応えた。なぜ、多くの人が完治する中で再発してしまったのだろうか、そう自問自答する日々がしばらく続いた。
新たに処方された薬は副作用が強く、肌は赤く変色し、アレルギー反応を起こしたかのような強い痒みが身体の至る所に現れた。それに加えて身体も重く、ベッドから起き上がれなくなってしまった。
研究を中断せざるを得なくなり、その悔しさにただひたすら涙を流すことしかできなかった。しかし世の中は不平等なもので、ハンディを抱えても大目に見てはもらえない。私は思い身体を引きずりながら、どうにか研究室へと足を運んだ。幸い副作用は軽減し、2ケ月も経った頃には、普通の生活を送ることができた。普通の生活に戻ったことに安心し、大学院修了と就活に向けてまた新たな一歩を踏み始めた。

しかし、そのどちらも上手くいかなかった。修論は、調査が出来てもまとまらない。就職も決まらない。周囲が難なく同時並行する二つのことを、私はどちらも仕上げることができない。モチベーションの沸かないことには取り組めない、物事を計画通りに進めることができない、発達障害の症状だった。結局どちらも成し遂げられず、進路未定のまま半年後に修了した。

望んだ勉強、望んだ就職先。病を持っていても夢はかなえられる

その後、夢であった公職に就くも、マルチタスクができずに配置転換することとなった。今はその部署で上手くやっているが、普通のことができず、県民の役に立てていないことがたまらなく悔しかった。

後に知った話であるが、これら2つの病は治ることはなく、遺伝しやすいのだという。このしがらみが何世代も続いていくという事実は受け入れがたいものであるが、それでも私は幸せを噛みしめて生きている。行きたい大学でやりたい勉強ができて、第一志望の職場に就職することができた。例え一生続くものであっても、病気と上手く共存することで、夢をかなえることができる。私は同じ病を持った仲間にそう伝えたい。