その日も店長の説教で終電を逃した。説教から解放されたのはAM2:00。
「これで今月何回目だろう」と考えながら、タクシー乗り場で財布の中身を確認する。自宅までおよそ20分。度重なる深夜料金約3000円の出費は私の安月給からすると痛手だ。
雨が降る金曜日の六本木交差点近くのタクシー乗り場には、終電が過ぎても長蛇の列ができていた。

タクシーの中で、店長から浴びた暴言や殴られた痛みを思い出した

やっと私の順番が来た。
「とりあえず、○○駅の方までお願いします」
と、いつも通り運転手さんに告げる。以前、自宅住所を伝えたらナビのせいなのか、上京して1年経っても抜けない田舎っぽさのせいなのか、遠回りをしてカモられたことがあった。
それから、別の運転手さんに自宅までの最短の道のりを教えてもらい、運転手さんの導き方まで教えてもらった。意地悪な運転手さんもいれば優しい運転手さんもいる。

泣いたせいでメイクは完全に落ちていたので、運転手さんから顔が見えないように窓の外に目を向ける。
過ぎ去ってゆく煌びやかな高層ビル群や繁華街。私はなんのために上京したのだろう。仕事をバリバリこなして、都会の女になるはずだったのに、脳裏に浮かぶのは店長から浴びせられた暴言や殴られた痛みだった。
「死ね」「殺すぞ」と言われるたびに「このまま店から逃げ出して、六本木交差点に飛び込もうかな。ちゃんと車に轢かれるかな。死んだら店長は狼狽えるかな」と毎日のように考えていた。
一緒に働いていた先輩達は「あみちゃん、これがうちの会社じゃないからね。他の店舗はもっと楽しいからね」と言い残して辞めていった。人が減れば減るほど、私への当たりはどんどん強くなっていった。

それでも異動という選択を取らなかったのは、先輩達の「他の店舗は楽しいからね」という言葉が信じられなかったからだ。新卒で配属されてから異動することなく、ずっと同じ店舗で働き続けた。たまにヘルプで他店舗で働くこともあったが、扱いはお客さん同然。
「ここに包丁あるからね!」
「洗い物ありがとう!!早くて助かる!」
いつもはかけられない言葉に涙したこともあった。でも、そんなの私が他店からきたヘルプだからみんな優しいだけ。私がいなければ罵声が飛ぶこともあるのだろう。

現に例の店長も、ヘルプが来ている日は表立ってキレることはなかった。
「ここで役に立たないなら、他の店に異動しても役に立たないいから」とか「この会社だから許されてるだけだよ。お前なんて他の会社じゃすぐに辞めさせられてただろうな」と日々言われていたら、そんな気がしてしまって、「私の居場所はここしかない」と思っていた。

「仕事なんてたくさんある」。タクシー運転手さんの言葉に…

説教されたことをグルグル考えてたら、いつの間にか目から涙が流れてた。
「仕事帰りですか?何かありました?」
運転手さんが遠慮気味に声をかけてきた。

私は初対面の人と話すのが苦にならないタイプだ。愚痴なんて聞いてもらう人を選ぶ類の話題は、同じ会社の同期に言ったら、尾ひれはひれ、もはや原型がわからないような装飾が施されたのち、店長の元に届いてしまうかもしれない。状態を悪くしかねない。

その点、タクシーの運転手さんなど今後会う確率なんて0に等しい。友達に喋る時のように「あいつと会うと自分のことばっかりだし、愚痴ばっかで会うの嫌」と思われることもない。私はゆきずりのタクシー運転手に思い切り愚痴を吐き出した。

「タクシー運転手やってみません?」
突然の彼の申し出に私は「へ?」と間抜けな反応をしてしまった。
「まぁそれは半分冗談として、仕事なんてたくさんありますからね。タクシー運転手なんて転職してきた人ばかりですし、人間なんでも向き不向きってありますから。耐えたからってそれが報われるとは限られませんし」
と彼は続けた。

そう、耐えたからって、誰に褒められるわけではないんだ。「言わなかったお前が悪い」と責められる可能性だってある。私はこの言葉で思考を取り戻した。

仕事なんてたくさんある。たまたま今の仕事、今の職場が私に合わなかっただけ。
よくよく考えたら、店長は今の会社でしか働いたことはないのだ。そんな人に、私が他の会社に行って役に立つかなんて正しい判断ができるわけない。

翌日、先輩に腕の痣を見せた。いまはそれなりに幸せな生活だ

そもそも私はなんのためにわざわざ東京に来て仕事をしているのだろうか。
店長と働くため?今の店で働くため?いやいや自分が思い描く幸せな生活を実現するためだったのではないか。
今の仕事は上京するためのただの手段。どうしてもやりたいことでもない。どうでもいいことのために死にたいって思いながら仕事をしているよりも、他の楽しめる仕事を探したほうが、自分自身を幸せにできるのではないだろうか。
翌日、私は新しく異動して来たばかりの先輩に腕の痣を見せた。

転職して5年が経とうとしている。
今の仕事も「絶対にやりたい!!」と思った仕事ではない。転職活動をしていてたまたま受かった仕事だ。うまく行かなくて凹むこともある。

でも、給料の多くを仕事の付き合いとか終電後のタクシー代に溶かすことはなくなったし、死にたいとも思わない。それなりに幸せな生活ができている。
それでいいと思う。「うまく行かないから、ちょっと休もう」と考えられる余裕がある。そのくらいの距離感がちょうどいい。こう思えるのは私が社会人生活に慣れたことだけが理由ではないはずだ。

4月から昇進することが決まった。「他の会社じゃ役に立たない」と言い放たれて絶望していた私では、考えられない未来である。
「この仕事しててよかった」と「仕事向いてないかも、辞めたいな」の繰り返しの日々ではあるが、とりあえずこの仕事で生きていく。